「ミニコミ」と一致するもの

vol.64 多摩湖トンネル自転車道・その7

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■お知らせ■
まぼろしチャンネルニュースでもお伝えしましたが、当ブログの前身となった町歩きラーメン銭湯巡り「ら~めん路漫避行」が本になりました。
【詳細:まぼろしチャンネルニュース刈部山本B食ブログ
13aki_hyosi『路地裏ら~めん漫湯記』 全80頁モノクロ¥800+税 【目次・サンプルページ】
連載全37回の東京23区を扱った回から厳選、大幅に加筆・訂正し書き下ろしを加えた、いわば手前の約10年に渡る活動の総集編です。自費出版のミニコミ誌という体で、ミニコミを扱う一部書店へ順次納品中していきます。納品完了次第、書店を紹介させて頂きますが、通信販売でも対応します。
併せて、08年夏に発行した、大宮の赤線跡や大衆酒場・食堂を巡るレポートをまとめた手製本コピー本『大大宮』の復刊リクエストがありまして、こちらの再版とのセットを、
●11/18(月)まで通販受付中!【詳細はココをクリック!!】


以上告知終了。

というわけで、多摩湖巡りの途中だったので、以前vol.63からの続き。今回で一応最後、玉湖神社の行き止まりの道を真反対へと回りこむ。
vol.53 多摩湖自転車道を行く・その1
vol.54 多摩湖の取水塔・その2
vol.55 多摩湖もう一つの取水塔・その3
vol.56 多摩湖おとぎ列車終着駅跡・その4
vol.57 多摩湖、そして狭山湖へ・その5
vol.63 多摩湖トロッコ軌道跡・その6

ここまでの自転車道沿道は公園としても整備された景観で、サイクリングにはもってこいのロケーションだったが、多摩湖西側半分は自転車道こそ整備されているものの、周囲は木々で覆われた雑木林、または藪といった風情で、観光開発として意識されていないようだ。
暗くなるとかなり不安になりそうな光景で、道は完全に移動のために通り抜けるしか目的がなさそうで、通り過ぎる車も心なしか速度が早く感じられる。
64_map.jpg ほぼ多摩湖の西端、少し開けたところに出ると、右手に西へと伸びる遊歩道のような整備された道が続いている。正式名称は野山北公園自転車道。ここから真っ直ぐ米軍横田基地まで続いている。
そして反対、多摩湖へ向かってはトロッコ軌道跡の横田トンネルがパックリ口を開いている。
64_01.jpg 1号隧道(トンネル)横田・2号隧道赤堀・3号隧道御岳・4号隧道赤坂・5号隧道と続く。
最初のトンネルに名づけられた横田という名称だが、一番横田基地側だからではなく(歴史的に考えれば米軍基地が後に出来たとすぐにわかりそうなものだが)、この界隈が村山市横田という町名だったらしい。横田基地は福生に位置するが、フッサというのがどうもアメリカ人には発声しづらく、地図上で近くに大きく書かれていた横田という町名をとった、というのは有名な話だ。

その元祖横田からトンネルに入ると、流石に暗いというか、つくりはしっかりしているものの、歳月を重ねた重みのある質感と空気感でトンネル内は満たされている。
64_02.jpg 水が滴り落ち非常に涼しいのだが、どこか背筋が寒い。子供が通ったら泣き出しそうな空間だが、近所の方は慣れたもので、何事もないようにまさに涼しい顔で通り過ぎてゆく。犬の散歩とかならわかるが、それ以外の人は何処へ行くのだろう?
64_03.jpg 余所者にはなんとも治安が悪そうに映るが、トンネルにはシャッターがついており、季節に応じて開閉時間が異なっている。

それぞれのトンネルは一見どれも同じように映るが、だんだんと山深くなるからかそれぞれに何処となく趣を異にしている。
64_04.jpg 2号隧道赤堀を過ぎたところで赤錆だらけのタンクを発見した。
64_05.jpg 隣りの小屋もどうも使われていない模様。廃養鶏場だろうか。
64_06.jpg トンネルと相まって相当気合の入った廃墟に感じられる。
64_07.jpg

その後、御岳を過ぎると一気に山深い雰囲気に包まれる。
64_08.jpg 緑の鬱蒼とした空気が支配している。一応舗装された自転車道なのだが、小さく淀んだ番田池を迂回するように道が折れ、この先は…と心配になるところで4号赤堀が待っている。
64_09.jpg ここを越えるともう既に山間の風情。鬱蒼というかジメジメしている。ここで自転車道の舗装が終わり、ぬかるみが始まる。ここまで来たのだからと意を決してぬかるみに足を踏み入れる。
暫くすると封鎖されている5号隧道が現れた。
64_10.jpg まさに出現といった面持ちで粗野に打ち付けられた板っ切れが物々しさを演出している。この封鎖はかなり安普請で開けられた形跡がある。
64_11.jpg ホームレスが寝泊りしていてもおかしくない雰囲気だ。
トンネル内は暗かったが入口付近に人気がないことを確認し、その安普請な板っ切れの間からトンネルの向こうを覗く。
すると微かな光の円が確認できた。
64_12.jpg そこは現在立入が許可されていない多摩湖の土手ッ腹。吸い込まれるように覗いてしまうが、おいッ!なんて今、背中を叩かれたら心臓が飛び出しそうなくらいヤバイな、なんて恐怖心に駆られ、足早に帰路に着いた。

【多摩湖自転車道篇・了】※この周辺の散策は期を改めて…

vol.50 赤山城址・後編~城址巡りで路上観察は可能か!?

前回・前々回
vol.48 赤山城址・前編~ミニコミ新刊延長線は水路の先にあり!?
vol.49 赤山城址・中編~城趾巡りは植木の香り!?
の続きを。

遊歩道に沿って北上していくと、高速の外環道が見えてくる。外環道直下の道がこの敷地の北端のようだ。
49_14.jpg やはりここが最高位地点のようで、ここから東西に堀が下がっている。
49_15.jpg 堀と高速の間には小さな公園があり、現代的な子供向けの遊具、パステルカラーの恐竜の頭が生垣越しにニョッキと現れるのはなんとも異様な光景だ。
49_16.jpg ここからは堀の中を進むしか道はないのだが、木々が生い茂り急に薄暗くなる。
49_17.jpg なにやら山道というか廃道散策の様相を呈してくるが、辻には祠のような小さな御稲荷さんが。
49_18.jpg 夜だったら十分肝試しに使える程、背筋が寒くなるシチュエーションとなる。
49_19.jpg さらに道は険しくなり、遂には行き止まり。
49_20.jpg 高速下へと戻って逆方向の探索も試みようとしたが、特に北東部は藪状態が酷く、これ以上の未開地探索は無理と判断した。
49_21.jpg 仕方なく来た道を戻り、城址の石碑があったメインストリートから南へ抜ける堀沿いに歩を進める。

ここのはやや細長い堀で、スリットのように伸びる植木が綺麗。
49_22.jpg すると堀は途中で途切れ、ただの生活排水路の暗渠のような、民家の裏路地となる。
49_23.jpg トタン張りの民家の塀をすり抜けると、元いた日枝神社の参道に出ていた。
狐に抓まれた様な錯覚を感じつつ、花卉園と住宅街の間をトボトボと歩き、家路につくのだった。

初めての城址散策を振り返ると、規模も小さく、人々の生活する空間に紛れるように存在していたこともあって、非常に身近なところで緑が残された神秘の空間のようで、意外性と特別感と生活感が混在する摩訶不思議な魅力にすっかり虜となってしまった。
ただ、植木の町という特殊性がそうさせた部分が多いだろうから、城址全てに該当する感慨ではないかもしれない。しかしどうも戦国時代を筆頭に、歴史ロマンというものがどうも胡散臭く、またそれを好きな人々の言動が鼻について全く好きになれなかった私の様な人間にとって、今回の体験が歴史にコミットする大きな第一歩となったことは間違いない。
奇妙な形で残される城址というものが、現在の中でどのような風景を見せてくれるのか、もっと見てみたくなった。これからも機会があったら巡っていきたい。
【了】

vol.49 赤山城址・中編~城趾巡りは植木の香り!?

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拙ミニコミ誌の初売りとなる冬のコミックマーケット、今回も無事当選しました。
12/31(月)3日目 東 フ-32a ガキ帝国
新刊は趣向を変え、初のフルカラーガイドブックという様相で作って行く予定です。その他、いつもの調子の限定本も持ち込みます【詳しくは手前のB食ブログの詳細記事を参照】
で、前回告知した夏新刊の再販ですが、委託先書店への納品も順次行なっています【詳しくはコチラ】
というわけで、その夏新刊で取り上げた川口のローカル風土&フード、中でも未掲載の城趾巡りを前回に引き続き綴って行きたい。

 

前回の続き:vol.48 赤山城址・前編~ミニコミ新刊延長線は水路の先にあり!?

高速を潜ると、やはり植木の町らしく花卉園の手入れされた木々の風景が続くわけだが、花卉園の中を緩くスロープ状に勾配がついている部分がある。
全体に先の調節池(野球グラウンド)から北へは土地が盛り上がっているのだが、先の案内板と紹介すると、外堀の外壁から城の敷地内へと土地が上がっているところのようだ。
49_01.jpg 頭上を鉄塔のシルエットが覆いかぶさるナカナカのビューポイントだが、写真右端の坂になっているスロープみたいなところが城の南端、鳩ヶ谷口の箇所らしい。

私有地なので突っ切っていくわけにも行かず、脇の公道を北上。
暫く行くと、脇道に何やらボンボリが下がっているのが見て取れる。
49_02.jpg 地元のお祭でもあるのかと近づいてみると、日枝神社と記された社が小じんまりと佇んでいた。
49_03.jpg トタンのような外壁で、山間に管理するものもなく打ち捨てられたような風情さえ漂っているが、案内板があったので読んでみると、城の南東部に3つの神社を祀っていた、天神社・天武社・山王社からなる山王三社であるらしい。
49_04.jpg で、ここはその山王社に当たるようだが、さっきは日枝神社って書いてあった。そういえば、赤坂の日枝神社も溜池山王にあって、山王祭が行われる。明治元年から日枝神社の称号を用いるようになったそうだが、そもそもは日吉山王社や山王社と呼ばれ親しまれていたらしい【日枝神社公式サイト】。どちらも徳川家に由来するからどっちでもいいのか(笑)。

神社の前は駐車場になっていて、察するに歴史散歩スポットとして観光用に整備したものだろう。
49_05.jpg お盆真っ只中というに1台も駐車しておらず、道行くは自分一人と、観光客誘致には敗色が濃そうだ。

駐車場からちょっと歩くと、いよいよ城の内側に至る。一面緑の回廊がお出迎え。
49_06.jpg これが想像以上に綺麗な空間でもう圧倒された。内堀の周りを綺麗に刈り込まれた植木が取り囲む。これは隣接する花卉業者の支援によって手入れされたもので、流石はプロといった端正な仕事っぷり。
49_06-2.jpg ぱっと見は茶畑のように見えなくもないが、実際は草迷宮とでも形容したくなるような整然とした空間になっている。
49_07.jpg ここを行き交うのは花卉業者や隣地の畑の持ち主、犬の散歩をする近所の方々のみ。時折すれ違う程度で、あとは自分一人、静寂の中を歩く。
49_08.jpg 堀の中は水が張っておらず、入れるようになっている。

敷地の丁度中央辺りに城趾を示す石碑が立っている。
49_09.jpg こうしたポイントポイントに案内板が設置されており、城址のどの辺にいるのかも随時わかるようになっている。
49_10.jpg MAPの他、伊那市の治水事業についてもキチンと記されていた。
49_11.jpg

49_12.jpg

城は思いのほか狭く、暫く行くとスグ遊歩道は途切れ、雑木林に行く手を阻まれる。
49_13.jpg 城というと石垣の高い立派なものを想像しがちだが、地方の陣屋とはこの程度かもしれない。しかしこの雑木林の部分も本来は城の敷地であり、江戸末期にはこの陣屋も相当荒廃していたと案内板にあったから、そもそもの状態を残している部分はこの程度でもあって御の字だったのかもしれない。まぁ辛うじて残っていた堀の形状を花卉業者が上手いことやってくれた賜物ともとれるが。

とりあえず遊歩道として整備された部分を行けるところまで行こう。
(続く...)

大変お待たせしてしまったが、8月に発行した拙ミニコミ誌、重版がやっと出来上がった。
de12natu表紙デウスエクスマキな食堂12年夏特別号
『岸辺のアブラミ 上下巻+別冊』

詳しくは↓
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東京の郊外散策と銘打って、川べりを中心に巡っているので、掲載しきれなかった延長線を今回から前後編で綴ってみたい。



これまで本連載で埼玉県川口市を何度か歩いてきたが、この埼玉県南部分には水路がことのほか多く、気づくと水路に出くわしたり、沿って歩いていることが実によくある。

現在のさいたま市見沼区、JR武蔵野線の東浦和駅近くは嘗て、台地に挟まれた沼地や荒地だった。今から380年ほど前、そこに八丁堤を築堤し、水を貯めて田んぼ等の生活用水とした。この見沼のため池の水は、行田市の利根大堰の辺りから利根川の水を引っ張ってきて、全長60kmほどの用水路、見沼代用水が出来上がった【cf.Wikipedia:見沼代用水】
江戸時代、江戸に人口が増え、水運の観点からも水路が必要となった。そこで、東京北部に接する、埼玉との境になる荒川へと、見沼の辺りから芝川や神領堀など色んな水路が引っ張られるようになる。なので、川口の辺りはやたら水路が走るようになった、ということらしい。
江戸初期に見沼をため池に改修した他、こうした河川改修や新田開発をアチコチでやり、荒川を熊谷からグイと曲げたことでも知られるのが、伊奈忠次というオッサン。埼玉県民なら伊奈町という町名を耳にしたことがあると思うが、伊奈氏の名に由来し、そこには嘗て伊奈氏の屋敷があった【伊奈町HP:伊奈町の歴史】
そこからこの川口にお引越ししてきて、赤山城を築城した。

というわけで、川口を水路づたいに巡ったら、赤山城に巡りあったなんて、歴史の点が線で結ばれたみたいでロマンチックでしょ。なんか運命的なものを感じてしまって、こうなったら赤山城跡に行くしかなるまい!

前世紀まで鉄道の通っていなかった、最近川口市と合併した鳩ヶ谷市。そこを縦断する2001年に開業した埼玉高速鉄道線に乗って、旧鳩ヶ谷市の北端、新井宿駅で下車する。

より大きな地図で 昭和迷宮物件vol.48MAP を表示
嘗ては旧岩槻街道の宿場町として栄えたが、今は東北自動車道の玄関口として、首都高川口線と外環道の交差する川口JCTが覆いかぶさる、車の通りすぎる町と化している。隣接する安行は植木の町として知られ、新井宿も花卉農家が道道に見受けられる。
綺麗に刈られた木々を横目にトボトボ歩いていると、首都高下に出る。高速脇に河川敷に見られるような空地を転用したと思しき野球場が目に飛び込んできた。
48_01.jpg 一見ただの野球場だがナニカオカシイ。
球場の土地、凹んだ平地に作られているのだ。つまり、河川敷のように、川があって土手があって、その間の土地が野球場に宛てられている。高速側が土手で、斜面を下ってグランドがある。その斜面は簡易スタンドのように段差が設けられている。
48_02.jpg 自分が駅から歩いてきた道も、緩やかな上りになっていて、高速高架下で直角に交わっている。この歩いてきた道と高架下の道が土手であり、川などの水路があったのではないだろうか。
既に暗渠化して川筋は見えなくなっているのか。ともかくグランドに下りてみようと、その時、野球場利用者の駐輪スペースに、黒くてぶっとい水道管が行く手に立ちはだかった。
48_03.jpg

48_04.jpg 何やら汲み上げる装置のようなものもあり、この底部に水が流れているに違いない。
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48_06.jpg 野球場なので一部にフェンスが張られているのだが、フェンスの向こうは藪のようで木々が生い茂っている。気になって金網越しに目を凝らすと、ビンゴ、水路だ。
48_07.jpg 場所からして、もしや赤山城の堀跡ではないかとも思ったが、城址まではまだ距離がある。単なる灌漑用水路か。
これがなんなのか、なにかヒントになる痕跡がまだあるかもしれない。フェンスにそって歩みを進める。注意深く目を凝らしていると、え、石垣!?
48_08.jpg 用水に関する何かが埋まっているようなコンクリの頭が出た部分の奥、真新しい白さで流石に往時の城壁ではないだろうが、大谷石だろうか。

近づけないので悶々としたものを抱えたまま、先を急ぐことにする。
48_09.jpg 高架下とぶつかる地点で信号待ちをしていたら、観光地にあるような市が設置したと思しき案内板を発見した。
読んでみるとこれまた大ビンゴ! 赤山城の外堀だったのだ。
48_10.jpg

48_11.jpg 石垣はさすがに後世に整備されたものだろうが、これにはチョット身震いするものがあった。
こんな幸先いいこと初めてかも。というわけで、これから赤山城へイザ参らん!
(続く…)

vol.37 新馬場の路地迷宮(夏コミ明け報告付き)

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拙著、B級グルメ町歩きミニコミ誌の新刊を先日無事、初売を遂げた。来て下さった方、多謝!
委託先へは今月末~来月初旬の納品予定。詳しくは右メニューを参照くだされ。

で、毎回コミケ明けは疲れと垢を流すべく、帰りに温泉によるのだが、今年もお台場の有明東京ビッグサイトからアクセスできるエリアにどこか適当なところはないかとアテをつけると、りんかい線で天王洲アイルから京急線沿線に出れるのがわかった。京急沿線は旧東海道沿いに昭和の町並みが残り、真っ黒な温泉が多く湧き出るエリアでもある。
前日からやってそうな温泉銭湯に目星をつけ、地図をプリントアウトしておいた。その地図を持って山手通りから京急新馬場駅周辺の商店街へ入る。

マップ上にマーキングされた場所を目指し路地へ入るも、そこに銭湯はなかった。この銭湯は先ごろリニューアルされたばかりで、HPもツイッターもあり、営業を確認済みだ。廃業したわけない。目の前には煤けた赤茶色の煉瓦で囲まれた寺の壁が続くばかり。異様な光景だ。
37_01.jpg 地図と記した銭湯の住所を改めて照らし合わせると、適切な住所にマーキングされていないことに気づいた。どうも当該住所が番地まで絞りきれず、丁目の中心にマークされていたようだ。アタター。
ということは、ここは北品川2丁目10番地。目指す銭湯は23番地。急ぐ旅ではない、23番地まで順を追って巡るとしよう。

そう頭を切り替えて改めて周囲を見渡すと、ここが異様な空間であることに気づく。住んでいる方には申し訳ないが、表通りの商店街から一本路地を入るだけで複雑に入り組んだ路地裏迷宮が始まる。
37_02.jpg 旅館があるかと思えば、その前の路地の突き当たりに、先の煉瓦塀が延々と続いている。それが寺社のものというのだから驚きだ。
37_03.jpg 37_04.jpg 歩を進めるとなるほど寺が多い。ここは寺町だったのか。それにしても他の寺でも壁の一部が煉瓦造りだったりする。
37_05.jpg 37_06.jpg 帰宅後調べて発覚するのだが、ここら一帯は空襲を免れたそうで、ここからは手前の憶測ながら、関東大震災後、防火対策に煉瓦壁が多く採用されたのが今に残っているのではないだろうか。

路地の住宅と旅館と寺。そしてその隙間に思い出したかのようにポツンとスナックが数件現れる。
寺町が三業地というのは別段珍しい話でもなく、飲食街になるケースも多い。四谷もそうだし、赤線の洲崎パラダイスの前身は根津権現にあった遊廓だった。神社の真向かいに、嘗ては飲食店だったろう看板部分だけ日焼け方が違うモルタル物件や、その棟続きのトタン家。
37_07.jpg そしてその参道と思しき路地の両サイドを固めるのが、丸型ランプや一部タイル貼りのスナックや、今様のカフェバーになっているが淡紅色のモルタルで2Fバルコニーの神殿のような意匠との調和がとれていない往時のカフェーのような物件が軒を連ねる。
37_08.jpg 37_09.jpg さらに路地をクネクネ、嘗ての井戸のポンプのみ残したようなものとすれ違ったりしながら彷徨うと、再び表通りの商店街に出た。
37_10.jpg 続きの住所表記を探していると、この商店街にもモルタル造4連や銅葺きの立派な看板建築が現存していた。
37_11.jpg 37_12.jpg 続きの住所を見つけ先とは反対側の路地に入り、やっと銭湯に行き着くことができた。

銭湯の詳細は上記、私のB級グルメブログの方に掲載しているので参照いただきたいが、まさかこの銭湯に行き着くだけで未知の路地空間を旅行できたとは。なにものかのイタズラに翻弄されたかのような不思議な時間だった。
すっかり北品川の路地に魅せられてしまった。今回はざっと巡っただけだが、これは腰を据えてじっくり歩き、調べていきたい。
ちなみに、この超近代的な銭湯、リニューアル前はどうだったのかと気になってネット上で調べてみたら、かなり渋い町場の看板建築状の物件だったのだが、この外壁というのが、なんと煉瓦造りだったのだ【参照:ぜいりしブログ】。これは実に惜しく、この目で見てみたかった。他にも銭湯が沢山あったようだが、こうした煉瓦壁は探せばまだあるかもしれない。う~ん、この土地とはこの先長い付き合いになりそうだ。

右サイドメニューでも告知を更新させてもらったのだが、拙著、B級グルメ町歩きミニコミ誌の新刊が今年も出来ますってことで、予告がてら泣く泣く未掲載となった写真をチト公開。

今回は商店街の特集ということで、昨今、出没エリアとなっている上野御徒町界隈から、日本で2番目に古い佐竹商店街を真っ先にピックアップしてみた。
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既に取り上げているはずだったのだが、あまりに魅力的でボリューム的に収まらず、今回別項を設けるに至った。
36_02.jpg
御多分に漏れずシャッターが多く、距離も短いし、地域密着の洋品店とか寝具、煎餅屋が並ぶ光景は、それほど特徴的と思われないだろうが、入ると何気に人の多い喫茶店がオーソドックスながら渋い仕事をしていたり、インベーダーゲームが現役で稼働していたりする。商店街自体も古いとあって、裏へ回ると、激狭路地がウネウネと続き、戦前の商店の顔を覗かせる。
36_03.jpg
周囲は関東大震災後に建てられ、空襲を免れた看板建築が多く残っているが、それだけでなく、商店街の商店一つ一つが、歴史の生き証人となっている。

先の東日本大震災以後、取り壊される戦前~戦後にかけての民家を、最近あちこちで目にするが、その動向はここでも見受けられた。
商店街の裏側にあった建築が取り壊されたことで、商店の真裏が露呈してしまった。
36_04.jpg
おどろおどろしくサビトタンが迫ってくる様子に戦慄を覚えた。
36_05.jpg
こちらは引きの画だが、この右はじの奥に見覚えがあった。上の商店街の写真だ。
だが、肝心の空き地となった場所にあった建物が思い出せない。撮った写真をひっくり返してみても、どうにも思い当たらない。
見落としていたのだろうが、こうして建物も時代とともに移ろいでいくもの。それでいいのだろう。

夏コミ当選!新刊出します!!

右メニューにも紹介させてもらってますが、拙著B食町歩きミニコミ誌の新刊を8月に発行します。初売はコミックマーケット80の3日目(8/14)です。 スペースは、 東"R"-11b 「ガキ帝国」 となります。そちらにご興味のある方、ぜひお立ち寄りください。 各委託先へは8月下旬納品予定です。 >サークルページへリンク その新刊の特集は「商店喰い-SHOW TEN GUY-」と題しまして、台東区・板橋区メインに、佐竹・鳥越・仲宿・蕨といった商店街とその路地裏をめぐる予定です。 今回は商店の連なり・繋がりを軸に据えていますが、そこから、これまで取り上げてきた戦前~戦後庶民建築はもちろん、戦争遺跡へも迫ります。そして超久々となる、昭和駄菓子屋ゲーセンもピックアップしています。 既に取材は大詰めを迎えているのですが、写真は板橋にある仲宿商店街の路地裏に眠る旧日本軍の遺構の一部。 itabashi_sample.jpg ちょっと早出しですが、今回もこんな感じで進めてますので、好きな方は期待してくれると嬉しいです。

【お知らせ】模索舎のトークイベントに出ます

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拙ミニコミ誌の委託でお世話になっている、少部数出版物取扱専門店、模索舎より、「一人で町歩きのミニコミ誌を発行すること」について、喋ってくれと依頼がりまして、トークイベントに参加させて頂くこととなりました。 メインイベントは、集英社より刊行されました、開高健ノンフィクション賞次点作品『ミドリさんとカラクリ屋敷』の著者、鈴木遥女史のトークなのですが、鈴木女史は地域ミニコミ誌も手掛けていることから、第2部(19:30)より、手前を交えてのトークセッションと相成りました。
ミドリさんとカラクリ屋敷第八回 開高健ノンフィクション賞次点作品 『ミドリさんとカラクリ屋敷』(集英社)刊行記念イベント 蜜月なお話し:模索舎ブログ詳細ページ 制作エピソードからまち歩き、おいしいもの、カフェ、一箱古本市、ミニコミ制作などなど... 『ミドリさんとカラクリ屋敷』著者にして雑誌『蜜月』【蜜月HP】編集者でもある鈴木遥さんとゲストの方々のトーク。 日時:5月28日 18:00~21:00 ※事前に予約された方には座席をご用意します。 ※ご予約無しでもご入場できますが、立ち見になる場合がございます。できるだけ事前にご予約をお願いいたします。
満足に話せるようなことなどないのですが、これまでの経験から、町と小規模飲食店を文章で扱うことについて...あまり自分出過ぎないように、かといって地蔵にならないように...喋りたいと思います。 僭越ながら、もし興味ある方がいらっしゃいましたら、足を運んでみてください。

旧竹町の五軒看板建築

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前回記事と、右メニューにも記したが、拙著ミニコミ誌、B級グルメ町歩きの新刊がいよいよ年末、コミケ79で初売りとなる【詳細は弊食べ歩きブログへ】
今回は上野~浅草橋に残る震災後に建てられた看板建築【wiki】を多くめぐったのだが、その中でも特に気に入った二階建て五軒長屋があった。
いつも覗いている町歩きのブログの先達、masaさんの「Kai-Wai 散策」の最近のエントリーに、なんとその五軒看板建築が紹介されていたのだ【該当記事】
さすがというべき写真で、自分のを出すのが躊躇われるが、拙著の内容を一部公開といった意味も含め、お披露目したい。
五軒看板建築@竹町.jpg
【東京都台東区台東3丁目】2010.10月撮影
台東区台東なんてなんとも味気ない住所だが、嘗ては竹町と呼ばれた場所。近くには佐竹商店街があり、辛うじて往時の町名をとどめている。
18-2.jpg
軽トラが止まってて残念だが、一番右の森永の...恐らく牛乳屋さんだったのだろう...が、商店建築らしさを保っている。2F右戸袋脇のバルーンのような球体がなんともレトロ!
それと、右3軒がコピー&ペーストしたように並んでいるが、真ん中の屋上物干しの、鉄筋の構造がさらけ出されている様が恰好いいやね。

エボナイト?

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右のメニューにNEWS欄を追加しましたが、弊ミニコミ誌新刊、鋭意取材中です。昨年に次いで台東区に残る看板建築を巡りまくってますが、掲載できる写真がどうもホンのちょっとだけになりそうなので、ボツ写真をボチボチUPしてみようかなぁと。
エボナイト.JPG
【東京都台東区台東3丁目界隈】2010.10月撮影
エボナイトとは硬く光沢をもったゴムの一種で、ボウリングの球や万年筆の軸に使われているそうです【Wikipedia】。万年筆のエボ屋さんというソノマンマの下町の町工場のHPがありました【笑暮屋(エボヤ)】
この界隈には自宅を兼ねた工場(こうば)がいっぱいあります。
手書き文字がいい味だしてるナァ~

絶滅危惧食堂の雄姿

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古建築を巡りながら定食など大衆食というかB級グルメを食べ歩く、拙著ミニコミ誌「デウスエクスマキな食堂」の最新号の準備に入っているのだが(初売は冬のコミケ:3日目12/31(金)東T-06b「ガキ帝国」にて)、掲載予定のある定食屋へ伺ったところ、近々値下げすることのお話を伺った。
100年ほどの歴史のある大衆食堂ながら、現状なかなか大変そうなので、お近くに御用の際はぜひ食べてみてほしい。本当に素晴らしいお店です。
詳細は拙B食ブログ:「田中食堂@稲荷町~緊急UP!!絶滅危惧食堂へ急行せよ!」

で、今回はこの素晴らしい佇まいを公開。
田中食堂引き.JPG
空襲を免れ、外壁は手を加えられているが、躯体は戦前のまま。
恐らく棟割長屋状態で、周りは駐車場やビルに囲まれている。この棟だけが完全に周囲から隔離されている。