明治二十年から明治三十年代にかけては、子どもたちの間でも幻燈遊びが全国的な流行を見せた(おそらく一握りの富裕階層子弟の間にであろうが)。弁士つきの幻燈会もたびたび開かれた。当時の幻燈機は、照明用として五分芯の石油ランプを使用したが、都市以外では良質の石油が手に入らず、山の中だと油煙ばかりが多くて光力が弱く、せっかくの映写面がぼやけてしまったという。フィルムの大部分は、映画製造者の手によるもので、修身説話や東京名所、京名勝、大和めぐり、日本の風景、世界名所があった。これにおまけとして二つ三つの漫画物を加えて、一晩に一回、映写するのが幻燈会だった。数は三十枚から多くて五十枚止まり。幻燈会の最後には、一個の美麗な花輪を映し出して、終幕を知らせたという。
 当時の幻燈機は大概の大都市ならば、理化学機械、楽器標本などの学術用品を販売する店には、必ず置かれていた。幻燈専門の製造販売店としては浅草並木町の鶴淵幻燈舗(鶴淵初蔵)が有名であった。
 明治二十二、三年頃から二十五、六年にかけては、幻燈が日本全国に流行し、地方都市の玩具店にも陳列された。値段は五十銭前後で、一円前後で、機械と種板二ダース位は手に入った。五、六人の少年がワリカンで共有の幻燈機を買うこともあったという。
 難波や東京には、専門の幻燈興行小屋ができるほど盛んになり、「日清・日露戦争」などの戦況をいち早く舞台にかけ、ニュース映画の先駆けともなっていた。
 幻燈が衰退していったのは、ガラスの種板が高価で割れやすく取り扱いに慎重さが要求されたこと、そして、明治末期になって活動写真の人気が上昇したためである。
 大正時代には、興行としてではなく、道具として幻燈機が注目された。映画の絵看板を書くときにも利用するのである。映画のスチール写真やポスターを板に貼られた用紙に投影し、墨や鉛筆で輪郭をとる。大正末期にキングプリンティングの創業者、津村英雄という画師が、開発した手法である。当時、活動写真が人気で、絵看板の注文が殺到、津村は大量生産するために「幻灯機」を用いた作画法を考え、幻灯機そのものを自ら作り上げた。津村が用いた幻灯機は、前面にレンズがついた小箱で、天板がガラス面になっており、映したい写真を載せれば、なかに仕込まれたランプと鏡によって像が屈折し、前面のレンズで拡大されてスクリーンに大きく投影されるものだった。
 家庭用玩具としては、昭和初期には家庭用の電球を用いて、襖などに映して楽しんむ方向に発展した。フィルムには「サルカニ合戦」などの童話や「兵隊さんよありがたう」などがある。電球は東芝の前身が明治二十三年に日本初の炭素電球を作り、松下電器は昭和十一年に本格的生産を開始している。
 興行としての幻燈機時代は終わりを告げたが、昭和初期に幻燈機は、教育スライドを映し出す視聴覚教材として浮上してきた。アメリカの視聴覚教育が日本に紹介され、主に地理と理科の学習のため、自作スライドの利用が盛んになり、各地の師範学校の付属小学校を中心に自作教材スライド研究会が開催されたという。戦前には、文部省による幻燈画認定制度があった。昭和十六年には、文部省がフィルム、スライドの製作を開始し、「東芝」「神風」の二種の幻燈機が文部省選定機となった。戦後はGHQの部局であったCIE(民間情報教育局)が、巡回映画とともに教育スライド普及の政策を積極的に勧めた。
 電灯が普及した後は、手作りで幻燈機を工作することができた。
 藤子・Aである藤本弘は、昭和二十一年に工芸専門学校(現・高岡工芸高校)電気科へ進学し、反射幻燈機をつくり、フィルムまんがを我孫子と二人で描いた。初めての合作で、「天空」が近所の子どもたちに大好評だった。「幕末太陽伝(日活)」で知られる川島雄三監督も幻燈機づくりが好きな子どもだったという。
 科学玩具としての幻燈機生命はながく、昭和三十年代ころまではデパートや通販で売っているものであった。プラスチックモデル(プラモ)の黎明期に一時代を築き上げたことで知られる「マルサン商店」(のちにマルザンと社名変更)も、プラモデル以前は幻燈機などを扱っている玩具メーカーであった。幻燈機は金属製で、小型の映写機のような形であった。玩具製品としての幻燈機が凋落していったのは、昭和三十年代なかばころであると思われる。渋谷に本社があった光成社が開発発売した「シネコルト」というピストル型の幻燈機が大ヒットしたために世代交代を生んだものと私は推察する。幻燈機の光源としては裸電球が必要であったが、「シネコルト」は電池が内蔵されており、引き金を引くごとに一コマ一コマフィルムが変わる手軽さが受けたのだろう。ただ、光源が豆電球であることは光量が足りずかなり暗いか、ねぼけた映像を結んだであろうことと想像するに難くない。

(光文社「少年のふろく」串間努、2000 より)