串間努
第2回「幻灯機」の巻
げんとうきとOHP
小学校低学年のときには、黒板の前や右側に「掛け図」という教具を掛けて、できあいの日本地図だとか、教科のサブテキストを表示してもらったものであった。ところが高学年になると、教室の天井から収納式の幕がぶら下がっていた。このスクリーンをするすると降ろし、オーバーヘッドプロジェクターで、私たちが描いたグラフや観察結果を投射するのだ。それまでは35ミリの小さなスライド映写機しか知らなかったから、これは画期的であった。
だが私にはスライドを映す映写機のほうが、雑誌の付録についていた幻燈機を連想させ、馴染みがあった。紙製の幻灯機を組み立て、後ろに懐中電燈を突っ込んで、障子やふすまに映し出すのは楽しいことであった。藤子不二雄先生たちも、「まんが道」の中で、自分たちで幻灯機を自作している。カメラや双眼鏡などの延長線として、こどもは科学応用の光学機器にヨワイのである。
幻灯機は明治13年に学校教育に取り入れられた。文部省は各府県の師範学校に、教育用の幻灯を頒布したのである。外国製の機器を使用する予定だったが、費用の関係で国産とすることになり、写真技術者として名声があった鶴淵初蔵と中島真乳が制作にあたった。しかし16年には経費がなくなり頒布は中止された。光源には石油ランプを使い、幻灯のタネ板はガラス板に手描きしたものが使われた。
昭和に入るとアメリカの視聴覚教育の影響を受けて、地理と理科の学習のため、各地の師範学校附属小学校を中心にスライド教育がなされるようになった。昭和16年に文部省はスライドフィルムの製作を開始し、「東芝」「神風」という幻燈機を選定機とし、数千台を各都道府県に購入させた。戦時中は、戦意高揚の宣伝媒体として使われたのである。このような宣伝媒体としての幻燈機は戦後には占領軍の宣伝ツールとして使われたという。占領軍のCIE(民間情報教育局)は教育スライドを重要視し製作を勧め、戦後の学校教育現場においてもスライドが果たした役目は大きい。
幻燈機という名称がスライドに変わったのは昭和34年頃から。しかし少年雑誌の組立付録では昭和40年代でも「げんとうき」と称し、クリスマス特別号のころに決まってついていた。
いまのスライド教育はOHPが主流のようだ。そのうちパソコンソフトで「パワーポイントスクール版」なんてのがでるかも。
スライドが幻灯機と結び付くなんて思わない子どもたちには、昔は紙製の組立付録に「げんとうき」が付いたなんて信じられないに違いない。
●「はるか」2000年11月号を改稿
2002年6月13日更新
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