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「ポップス少年」タイトル

リトル・R・オノ

第5回 自作自演のハイティーン・シンガー、ポール・アンカが来日した1958年

 1958年(昭和33年)というと、私は小学校の3年生。ほんとにこんな年齢の時にアメリカのポップスに興味があったのかと思うと妙にマセた子供だったと言うしかないが、当時日本で流行っていた歌が「からたち日記」(島倉千代子)、「夕焼けとんび」(三橋美智也)、「有楽町で逢いましょう」(フランク永井)など大人の歌だから、こういった歌謡曲にはしっくりこないのですね(この年から始まった玉置宏司会のTV『ロッテ歌のアルバム』などはぼんやりと見ていた)。その点、何を歌っているのか解らない英語の歌の方が、軽快で明るいぶんフィットしたのでしょう。TVドラマに見るアメリカに対する憧れが膨らんでいってる頃だから、音楽に対しても同じような思いがあったのだと思います。
 学校で友達をがんがん作るタイプではない私もこの頃になると、親友のG藤君に、Y川君とY田君を加えた4人でグループを作ります。8歳の日本の少年たちがドゥワップ・グループを作るわけもなく、何に影響されたのか“愚連隊”を作ったのです。それぞれが「〜のテツ」というチンピラ名を名乗り(例えば鉄錆からの発想で「オレは“サビのテツ”がいい」とか付けると、「じゃあオレは“ワサビのテツ”」とかの他愛ないネーミング)、クラスメイトにニラミをきかせる。といっても「カネ出せ」とか「なんかパクッてこい」とかの本格的なものではなく、一大勢力(?)を作るために「仲間に入れ」と脅すのです。「いやだ」という子に対しては少しはこづくくらいのことはしたかも知れない。しばらくそんなことをやっているうちに、先生に知られることとなり、「〜のテツ」グループは一大勢力になれずにあえなく解散。担任の女教師にこっぴどく怒られたわけでもなく、また親にも連絡が行ったはずだが、母親からも特に何も言われなかったので、ホッとしつつ、すぐに普通の子に戻れたのでした。

1958年秋の運動会

1958年秋の運動会
 みんなそれぞれ表情が豊かで、基本的にはみんな楽しそう。これが小学3年生の正しいすがた。和服姿の見物人がいたりして、時代を感じさせる。

 何であんなグループを作ったのか思い出せないが、マンガかテレビの影響かなと思う。あるいは言い出しっぺのY田君あたりはすでにグレかかっていて、ひょっとすると東京の愚連隊“安藤組”に憧れてたのかもしれない。
 だからというわけではないが、小3でアメリカン・ポップスが大好きでもおかしくはないのだ。この年、私が初めて好きになるポップス・シンガーが日本で話題にのぼる。前年の1957年に自作自演の大ヒット曲を16歳という若さで飛ばしたポール・アンカだ。その曲「ダイアナ」は、日本では58年にヒットし、続いて「ユー・アー・マイ・デスティニ(君は我が運命)」「クレイジー・ラヴ」も大ヒットし、ラジオのチャート番組では1位から3位まで独占するという快挙を成し遂げ、さらにこの年の9月には来日まで果たす。

「ダイアナ」 「ダイアナ」
Diana
ポール・アンカ

 循環コードによるヒット・ソングの見本のような楽曲。このコード進行でこの後、何曲もヒットが生まれていく。ロックンロールが廃れてポップスが主流になっていくきっかけになった曲とも言える。ジャケット・デザインもマンガチックで斬新。

「ユー・アー・マイ・デスティニ(君は我が運命〈さだめ〉)」 「ユー・アー・マイ・デスティニ(君は我が運命〈さだめ〉)」
You Are My Destiny
ポール・アンカ

 こちらはマイナー調のロッカバラードの見本曲。

「クレイジー・ラヴ」 「クレイジー・ラヴ」
Crazy Love
ポール・アンカ

 「ユー・アー・マイ・デスティニ」の二番煎じのロッカバラード。

「ダイアナ」 「ダイアナ」
清野太郎(スイング・ウェスト)

 58年5月発売のデビュー・シングル。清野は怪我のせいで第1回日劇ウエスタン・カーニバルに出られなくなり“ロカビリー三人男”に遅れをとった。B面「ドント」はエルヴィスのカバー。ジャケットは本家P・アンカの首6ヶに対して首1ヶで対抗。セカンド・シングルも「クレイジー・ラヴ/思い出の指環」と、やはりエルヴィスはB面扱い。

 テレビでポール・アンカ来日公演の模様が流れた。これを私はよく憶えている。ステージで愛想を振りまきながら歌っているところに飛んでくる紙テープを、逆にポール・アンカが客に手渡すという行為を見て、「イカス!」と思ったからです。今ではステージに五色の紙テープが乱れ飛ぶなどというシーンは見られなくなってしまいましたが、当時は客席から紙テープがステージの歌手にめがけて投げ込まれ、歌手はその紙テープを握りながら歌っていました。船が出帆するときに船側と岸側とを結ぶ紙テープのようでもありました。これはアメリカでもあったことなのかはよく分かりませんが、エルヴィス・プレスリーのステージ写真でも紙テープは見たことないし、ビートルズもジェリー・ビーンズが投げられたことはあっても紙テープは記憶にない。紙テープを投げ、お目当ての歌手と“間接握手”するというのは、おそらく日本だけの流行だったのでしょう。たまに投げた紙テープが歌い手の顔面を直撃したりすることもあり、結構痛そうで、ボクサーのフットワークよろしくそれをよけながら歌うという、今にしてみたら君たち一体何やってんのみたいな光景も見られました。
 紙テープ投げはグループ・サウンズを経て70年代まで続きますが、これもいつの間にかなくなってしまいます。最初がいつだったのか判りませんが、この年2月に開催された第一回日劇ウエスタン・カーニバルではすでに乱れ飛んでいたのをニュースで見た記憶があります。あとになって、ロカビリー・マダムと呼ばれた渡辺プロの副社長渡邊美佐が前もってファンに紙テープを仕込んでいたことを知りますが、人気があればあるほど飛ぶ紙テープの量は多く、歌い終る頃には全身テープでぐるぐる巻きになっている歌手もいたりして、子供ながらに「バッカじゃないの」と思ってました。そんな記憶があったからこそ、ポール・アンカが客席にテープを差し出す姿はオシャレで「カッコイイ」と思えたのかもしれない。もちろんポール・アンカも紙テープぐるぐる巻きだったと思いますが。
 来日時のポール・アンカについて憶えているのはそれぐらい。その後「マイ・ホーム・タウン」という曲がヒットする60年に、ちょうど我が家にも電蓄が備わったので、すぐにこのシングル盤を買い、遡って「ダイアナ」など何枚かのシングル盤を買うことになります。というように、私にとっての最初のポップ・アイドルでありました。

「恋の汽車ポッポ」 「恋の汽車ポッポ」
Train Of Love
ポール・アンカ

 60年当時の恋人アネットのために書いたセルフ・カバー曲。英国ではアルマ・コーガンがカバー。この時代の大胆な二色刷り印刷はいいですね。

「恋の汽車ポッポ」

「恋の汽車ポッポ」
森山加代子

 A面は、意味不明の呪文のような和製ポップス「じんじろげ」で、作曲は中村八大。

「デンワでキッス」

「デンワでキッス」
Kissin' On The Phone
竹田公彦

 この曲は、P・アンカのオリジナルより、パラダイス・キングの佐野修バージョンが何と言っても有名。甘ったるくてキモワル度ナンバーワンでした。

 折しも前述の日劇ウエスタン・カーニバルで日本のロカビリー・ブームに火が付きますが、“ロカビリー三人男”がこれと前後してそれぞれカバー曲でレコード・デビューを果たします。しかし山下敬二郎(とウエスタン・キャラバン)の「バルコニーに座ってc/wダイアナ」以外は、平尾昌章が「リトル・ダーリン」、ミッキー・カーチス(とクレージー・ウエスト)が「月影のなぎさ」(アンソニー・パーキンスのカバー)というように、ロカビリーとは縁も所縁もないような選曲でのデビューなのです。特に映画俳優トニー・パーキンスが歌う「月影のなぎさ」は、パット・ブーンのようなソフトな歌声。それをデビュー曲に持ってきたミッキー・カーチスにはロカビリー魂はないのか、オイ! とでも言いたくなる。本来ならエルヴィス・プレスリーのカバーからスタートして然るべき日本のロカビリーは、こんなハンパな出発になってしまった。そして、ポール・アンカ人気により日本のロカビリアンはこぞってポール・アンカの曲をカバーすることになる。その中でも日本人に一番影響力を与えた曲が「ユー・アー・マイ・デスティニ」で、この曲のヒットによりビートが抜け落ちたまま日本ではロッカバラードが主流になる。さらにこの三連のバラードはジャズ畑の中村八大に歌謡曲「黒い花びら」を作らせ、翌59年の第1回レコード大賞を受賞させることにもなる。

「月影のなぎさ」

「月影のなぎさ」
ミッキー・カーチスとクレージー・ウェスト

 カップリング曲「小熊のテデー」とはエルヴィスの「テディ・ベア」のカバー。

「月影のなぎさ」

「月影のなぎさ」
Moonlight Swim
アンソニー・パーキンス

 曲の雰囲気にそぐわぬ、映画『サイコ』調の顔が怖いジャケット。

「好きなんだ!」

「好きなんだ!」
平尾昌章とオールスターズ・ワゴン

 この曲は来日中にP・アンカが平尾のために作った由。音羽たかしが訳詞を付けた。P・アンカは他にも「クリスマス・イン・ジャパン」というオリジナル・クリスマスソングを書き、レコーディングを日本で行ない、日本のみレコード発売してヒットさせている。
 平尾はこの年58年7月発売のオリジナル歌謡「星は何でも知っている」が大ヒット。

 ところでポール・アンカは1941年7月生れ。ジョン・レノン(40年10月)とポール・マッカートニー(42年6月)と同世代というのに驚かされる。他にも、フィル・スペクターは40年2月。ボブ・ディラン、41年5月。ポール・サイモン、41年10月。キャロル・キング、42年2月。ブライアン・ウィルソン、42年6月。というように有名どこに同世代が多い。ビートルズを例に出すと、57年「ダイアナ」が大ヒットしている頃にジョンとポールはようやく出会い、ビートルズの前身バンド、クオリー・メンでアマチュア活動をはじめる。さんざんロックンロールを演奏し5年を経て1962年にやっとデビューということになる。ポール・アンカは14歳のころからナイトクラブで歌っていたというからいかに早熟だったか。
 いずれにしても、これらのアーティストに限らず、リッキー・ネルソン(40年5月)、フランキー・アヴァロン(39年9月)らポップ・アイドルも含めて1940年前後に生まれた世代は50年代半ばにロックンロールの洗礼を受け、遅かれ早かれ音楽活動を始めることになるのだが、一部の才能たちを除くと、ビートルズがアメリカで成功を収める1964年には消えてしまうことになる。天才少年と呼ばれたポール・アンカも、ビートルズが存在している間ヒット曲が出なくなったが、「マイ・ウェイ」に彼が英詞を付けフランク・シナトラが歌ってヒットすると、本人も見事に復活するのである。

※印 画像提供…諸君征三郎さん


2004年6月4日更新
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第4回 1957年の異色ヒット・ソング
第3回 肝心のロックンロールが伝わらなかった日本…1957年
第2回 反抗する若者たちの時代、到来…1956年
第1回 昭和30年代初期の洋楽…“ロックンロール元年”の1955年


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