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「昭和のライフ」タイトル

アカデミア青木

潮干狩

第40回 あっさりとはいかないアサリの話


 年末にアルバムの整理をしていたら、昔の潮干狩の写真が出てきた。小生が4歳の頃千葉の稲毛海岸で撮ったものだが、この浜は埋め立てられて、今は団地が建っている。かつての東京湾にはこうした潮干狩場があちこちにあったが、今回の昭和のライフでは、そこでのメインターゲット、「アサリ」について取り上げてみたい。

1.アサリの生態と養殖の始まり
 アサリはマルスダレガイ科の食用の2枚貝で、内湾の潮間帯から水深10メートル位までの砂泥底に生息している。採集が容易で、「漁(あさ)る貝」が訛って「アサリ」になったといわれている。サハリンから日本、朝鮮、中国にかけて分布し、殻の長さ4cm、殻の高さ3cm位の長楕円形で、左右が膨らむが、環境の好ましくない所で育った個体は前後が短く、俗に「ダルマアサリ」と呼ばれる。湾内の波穏やかな所で育つアサリほど、殻が薄く、肉が軟らかい上物になるといわれており、産卵期は5〜12月だが、春(5月頃)と秋(10〜11月)が盛ん。殻の長さは生まれてから半年で2.2cm、1年で3cmに育つ。

アサリ

 殻付きのアサリは食べる前に「砂出し」をする必要がある。アサリを塩分2〜3%の塩水に5〜6時間以上つけると、体内から砂が吐き出される。俗に、「塩水中に金物を入れておくとよい」といわれるが、これは迷信である。とはいうものの、昭和10年9月2日付の『東京朝日新聞』(朝刊9面)には、「貝類に砂を吐かせる秘伝」として、「塩水につけるだけでは不十分で、鋏、包丁、小刀のような金物を一緒に入れておくと、奇妙にすっかり砂を吐いてしまう」という記事が掲載されているので、昔は本気で信じられたのだろう。
  アサリの採集に当たって漁師は、浅瀬では「腰まき」という道具を使う。棒の先端に熊手と一体化した籠が取り付けられており、この籠の口の開いた先を砂地につき刺し、籠の口の両端から渡した紐を腰にかけ、棒を巧みに動かしながら砂の中にいるアサリを掘り起こす。沖合のアサリを採る時は、長い棒を籠に取り付けた「大まき」(写真)を使って、船で籠を引くのだ。

大まき

 地域によっては天然物を採るだけではなく、稚貝を放して育てている。内湾の砂地に、1平方メートル当たり0.5〜5.5Kgの見当で撒くと、1年間で殻の長さが1.5倍、重さが3倍になるという。ちなみに千葉県の浦安では明治32年に貝の養殖が始まっている。また、後に「内海王」と呼ばれた横浜の大谷新吉は、アサリの行商から身を起こして貝類の養殖場を経営したが、日露戦争の際に軍用の佃煮向けの注文が増えたため、養殖場を東京湾岸の新子安、磯子、船橋、木更津へと広げていった。アサリの養殖は東京湾以外でも試みられ、昭和の初めには珍しいものではなくなった。

2.戦前のアサリ漁
 表1は、大正元年以降のアサリの年間漁獲量の推移を示している。

 大正元年の数値を見ると、都道府県別トップの千葉県は1万1000トンで、全国漁獲量1万8500トンの6割を占めていた。江戸前の味として、アサリのむき身をご飯に炊き込んだり、油揚げやネギと煮て飯の上にかけたものを「深川飯」と呼んでいるが、東京の深川方面は明治から大正にかけて埋立が進み(第11回『東京湾釣り物語「アオギス」&「クロダイ」』の図1参照)、アサリの本場は千葉県側へと移っていった。江戸川の河口域では、上流からもたらされた養分たっぷりの水の恵みで、良質の海苔やアサリを得ることができた。しかし、台風の接近などで川から大量の雨水が干潟に流れ込むと、海水の塩分濃度が低下して、アサリが死んでしまうことがある。昭和5年8月には、出水によって浦安から船橋にかけての養殖用稚貝が全滅(当時の価格で40〜50万円の被害)、撒いて養殖している貝も5割方が死滅してしまった。(『東京朝日新聞』昭和5年8月10日付夕刊2面)深川方面に対して、多摩川の河口に当たる羽田や大森方面ではアサリ漁が続けられたが、こちらも大雨の際には多摩川の出水によって被害を受けた。昭和13年7月8日付の『東京朝日新聞』(朝刊10面)によれば、都下の水害によって、大森や城東の砂町方面のアサリ、ハマグリ(年生産額60余万円)がほぼ全滅したという。いったんアサリが全滅すると、漁場に再び稚貝を撒かなければならず、再び獲れるようになるのに数年を要した。
  この他にアサリの産地というと、「渥美の大アサリ」で知られる三河湾や有明海などが知られるが、大消費地・東京を擁する千葉、東京、神奈川は、戦前、常に上位5位をうかがう位置にいた。

3.アサリと食中毒
 戦中、戦後の混乱期、アサリは海岸沿いに住む人々にとって貴重なタンパク源となっていた。熊手1本持って浅瀬や干潟に出れば、たやすく大量に採ることができたからだ。しかし、時には悲劇も起きた。昭和17年3月下旬、浜名湖畔の静岡県新居町で、アサリの食中毒が元で大量の死者が出てしまった。当時の新居町の人口は1万552人。3月21日、22日は祭日、日曜が続く連休で、絶好の好天に恵まれた。そのためほとんど全町民が「八兵衛瀬」と呼ばれる浅瀬に出掛けて潮干狩を行った。21日以降アサリを食べた4793人中247人が食中毒を発症、町内で90人が亡くなった。食中毒の発病率は5.2%に過ぎないが、発病者のうち死んだ者の割合は36.4%。伝染病でいえばコレラ程の死亡率だった。追跡調査によると、アサリをたくさん食べた人ほど亡くなっており、1日、2日で1升あまりのアサリを食べていたという。この中毒事件は最終的に罹患者334人、死者114人を出して終息したが、その後、研究者から、八兵衛瀬そばの工場が排出した酸性の廃液の影響で貝が毒化したのではないかという指摘が示された。しかし、戦局の悪化とともに原因の追及はうやむやになってしまった。
  また昭和47年4月には、「東京湾のアサリから基準値を超えるカドミウムが検出された」と農林省の東海区水産試験所が発表して、パニックが起きたことがある。この問題は同月末に千葉県が安全宣言を出したことで終息したが、それまでの間、デパートの店頭からはアサリが消え、当該海域以外の潮干狩場で客のキャンセルが相次いだり、貝問屋や佃煮業者が打撃を蒙ったりと、散々だった。
アサリは大量の海水を吸い込み、そこにいるプランクトンや有機物を漉し取って栄養にしており、その濾過量は1個体で1日10リットルに及ぶという。貝毒もカドミウム問題もこのアサリの生態がもたらした影の部分ということができよう。

4.アサリの戦後
 表2は、昭和22年以降のアサリの価格&1世帯当たりの年間購入量、購入額の推移を示している。年間購入量は、終戦直後から増減を繰り返しながら昭和32年にいったんピークを迎えているが、これは戦後の混乱期を抜けて、和食主体の献立が食卓に復活した時期と重なっている。

 その後は高度成長期を迎え、「食の欧米化」の波に洗われると、年間購入量は昭和37、8年には1.5Kgを切るまでになってしまった。しかし、この頃からアサリを用いた洋食がマスコミで取り上げられるようになり(「アサリのソースでスパゲティを」:『朝日新聞』昭和39年5月29日付朝刊9面)、洋の食材としてアサリが注目されるようになる。アサリの消費はその後持ち直し、昭和50年代末からバブル期にかけて第2のピークを迎えた。これは当時のイタリアンブームに乗ってボンゴレ向けの需要が高まったからかもしれない。
  一方、アサリの漁獲量に目を転じると、表1にあるように、昭和40年代半ばをピークに減少へと転じている。昭和40年代後半に東京湾の埋立が進んだ結果、トップに君臨してきた千葉県の漁場は、江戸川河口の三番瀬、木更津沖の盤洲、富津岬の3ヶ所だけになってしまい、アサリの本場は熊本、大分、福岡といった九州地方へと移っていった。また、平成に入ると、表3に見られるように、韓国、北朝鮮、中国からの輸入が増え、そのあおりを食う形で国内の年間漁獲量は急速に減少している。平成2年には国内漁獲が71.2千トン、輸入が32.9千トンだったのが、平成5年には国内漁獲 57.4千トン、輸入57.3千トンとほぼ並び、平成10年には国内漁獲36.8千トンに対し、輸入はその2倍の72.5千トンに達した。

 アサリの輸入は平成12年をピークに減少傾向にあるが、表2の1世帯当たりの年間購入量もこの年を境に減少傾向を示している。21世紀に入り、アサリ離れが始まったのだろうか?潮干狩に甘酸っぱい郷愁を感じる者としては、思い過ごしであってほしいと願わずにはいられない。

船橋港のアサリ船団


【参考文献】
 『日本家庭大百科事彙』冨山房 昭和2年 の「アサリ」の項
 『世界大百科事典』平凡社 昭和63年 の「アサリ」の項
 『日本大百科全書』小学館 平成6年(2版) の「アサリ」の項
 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』の「アサリ」の項
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B5%E3%83%AA
 『三番瀬の変遷』三番瀬再生計画検討会議事務局 平成16年
 「椛蜥J政吉商店・潟Iオタニの物語」
 http://www.japanfoodnews.co.jp/hotline/personalstory/070410ootany2.htm
 『朝日新聞』 昭和17年4月11日付朝刊4面
 同       昭和18年5月26日付朝刊3面
 同       昭和27年5月12日付夕刊2面
 同       昭和47年4月23日付朝刊22面
 同       昭和47年4月29日付朝刊18面


2008年2月6日更新


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