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「昭和のライフ」タイトル

アカデミア青木

第5回 バラ色だった「宇宙時代」


星団 小生が「宇宙時代」の洗礼を受けたのは5歳の夏、昭和44年7月のアポロ11号の月面着陸の時だった。白黒テレビには荒涼とした月の様子が写し出され、「うさぎが住んでいる」という言い伝えが真っ赤なウソであることをそこで覚った。翌年の大阪万博では、ソ連館で「宇宙船」が、米国館で「月の石」が目玉となり、人々に宇宙へのあこがれを抱かせた。今回の昭和のライフは、我々が宇宙にバラ色の未来を感じていたあの頃を、五島プラネタリウムの歩みと望遠鏡業界の動向から振り返る。

・「宇宙時代」はいつから?
 当時、「宇宙時代」という言葉がテレビや新聞で盛んに使われたが、その始まりは実のところいつからなのだろうか。米国のアイゼンハワー大統領が「国際地球観測年(昭和32〜33年)に人工衛星を打ち上げて科学観測を行う」と表明した昭和29年7月なのか、人類初の人工衛星スプートニク1号(ソ連)が打ち上げられた昭和32年10月なのか。社会に与えた影響は後者の方がはるかに大きかったので、仮に宇宙時代の始まりを昭和32年としておこう。


・五島プラネタリウムの誕生
渋谷駅南口 この年の4月、東京・渋谷の東急文化会館に「天文知識の普及」という事業理念を掲げて、天文博物館「五島プラネタリウム」が開館した。日本の最古のプラネタリウムは、昭和12年に大阪市立電気科学館に設置された。東京ではその翌年、有楽町の東日天文館にプラネタリウムが設置されたが、20年に戦災で焼失してしまった。それから12年、東京にプラネタリウムが復活したのだ。五島プラネの「五島」は、東急グループの総帥五島慶太氏の姓から取ったものだが、本人は恥ずかしがってこの名称をなかなか了承しなかったという。初年度の入場者数は、物珍しさや人工衛星ブームの影響もあって70万人を超えた。(表1)

昭和33年〜37年頃の入場者数を見ると常に「団体客」が「個人客」を上回っているが、これは当時五島プラネが修学旅行のコースに組み込まれていたからである。したがって、40年代以降地方都市にプラネタリウムが開設されるようになると、団体客も減っていった。千葉を例にとると、昭和42年に千葉城(千葉市)の中にプラネタリウムが開館し、周辺の小学生や幼稚園生は専らここを利用するようになった。その後五島プラネの入場者は個人客が主流となるが、入場者数はアポロ11号の月面着陸後に第2のピークを迎え、10年間その状態を保った。この間宇宙ステーションが打ち上げられたり、火星に探査機が着陸したりと、宇宙の話題に事欠かなかったことがその背景にある。

・望遠鏡業界の動向
 宇宙時代の到来は、望遠鏡業界にも大きな影響を与えた。終戦から昭和30年代の初めまで、日本の望遠鏡市場は官庁・学校向けが大きなウエイトを占めていた。当時家庭で望遠鏡を持つことは夢のまた夢で、天文少年達は自作の望遠鏡で月などを見ていた。ところが、宇宙時代の到来により海外から大量の注文が舞い込み、業界は活況を呈することになる。生産台数は、昭和34年に前年比4倍増の39万台、40年代前半には毎年50万台を超える水準を維持した(ちなみに、輸出比率は40〜43年に7割。44〜46年は9割に達した)しかし、46年のニクソンショックをきっかけに為替レートは円高基調となって輸出環境は次第に悪化、48年のオイルショック以降各社は国内向けの高級品に生産をシフトしていった。平均単価の推移からわかるようにその流れは今日も続いており、現在コンピュータによる天体の自動導入装置が付いた小型高級望遠鏡も登場している。

・天文イベント
皆既月食 日食や月食、新彗星の発見などの天文イベントは、プラネタリウムの番組で積極的に取り上げられる一方で、望遠鏡やフィルムなどの売り上げにも貢献している。昭和40年以降発生した主な天文イベントと関連業界の動きを見てみよう。

 【池谷・関彗星】 昭和40年9月に池谷薫、関勉の両氏によって発見された大彗星。
 【火星大接近】  昭和46年8月に地球から5600万kmまで接近。明るさ−2.6等。望遠鏡が良く売れた。
 【ジャコビニ流星雨】 昭和47年10月大出現が予測され、観測に協力するため繁華街でネオンが消されるなどしたが、カラ振りに終わる。カメラ店では撮影用の高感度フィルムが売り切れた。
 【ウエスト彗星】 昭和50年8月にウエスト氏に発見された大彗星。巨大な尾を見せた。

ハレー彗星 【ハレー彗星】 昭和60年の年末から翌年春にかけて76年ぶりに地球に接近。日本はハレー彗星を観測するために探査衛星「さきがけ」、「プラネットA」の2機を打ち上げた。望遠鏡の生産も近年にない水準(前年比1.7倍)に達した。ISO1600のカラーフィルムが登場したのはこの前年。
 【しし座流星群】 昭和40年、平成11年と33年周期で大出現した流星群。平成11年の際には流星雨を航空機内から観望するツアーが登場した。昨年11月に突発的に大出現した事はまだ記憶に新しい。

東急文化会館

・色あせた「宇宙時代」、五島プラネタリウムの閉館、そして…
 昭和61年に起きたスペースシャトル「チャレンジャー」の爆発事故をきっかけに、「宇宙熱・宇宙開発熱」は急速に冷めていった。それとともに五島プラネの入場者はみるみる減り、平成13年3月にとうとう閉館してしまった。だが、入場者減の理由は「宇宙熱の減退」だけではない。この間、地方では県庁所在地だけではなく中堅都市にまでプラネタリウムが設置されるようになり、五島プラネの地元東京でも、区立の施設が続々と作られていった。この新設プラネにお客を奪われたことが大きかったのだ。皮肉な結果になってしまったが、「『天文知識の普及』という五島プラネの事業理念は、『プラネタリウムの全国的な普及』によって達成された」といえる。ただし、全国のプラネタリウム関係者にとって、五島プラネは経営面・演出面で良い「お手本」であった。そのお手本を失った各地のプラネタリウムが今後どのような運営をしていくのか多少不安であるけれど、五島プラネに代わっていつまでも少年少女に宇宙への夢を与え続けてほしいものである。
 最後に五島プラネタリウムを偲んで、開館年と閉館年のプログラムを掲げておく。(表2)


[参考文献

『世界大百科事典』(平凡社)の「宇宙開発」の項

『機械統計年報』昭和30年〜平成9年 通産省

『五島プラネタリウム44年のあゆみ』(財)天文博物館五島プラネタリウム 平成13年]



2002年9月17日更新


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