最終回 1972年(昭和47年)
「1972年の話題といえば、まず“あさま山荘事件”だよね。2月19日に連合赤軍の5人が軽井沢の“あさま山荘”に人質をとって立てこもり、28日に警視庁機動隊が突入開始するんだが、その日は10時間以上に及ぶ長時間中継が行われた。民放各局はCMなしの自主放送にふみきり、CMカットによる民放の損失総額は2億円以上と云われている。人質救出の18時台の視聴率は89.7%に達したけど、利益にならなかったわけだ」
「大事件がおきると必要以上に報道陣が現場に押しかけるのよね。正確な報道だけに徹すればいいのに、最近はレポーターの意識過剰が目立つわ。昔は野次馬が現場を騒がせたけど、現在は報道陣」
「報道陣といえば、2月3日から開催された札幌オリンピックでは、選手より報道陣の方が多かったんだよ。なにしろアジアで初めての冬季オリンピックだったので、世界各地から報道陣が押しかけたんだ。札幌オリンピックでは、ジャンプ競技で日本の3選手が金・銀・銅を独占して“日の丸飛行隊”と呼ばれて話題になったね。まさに“仕掛けて仕損じなし”の偉業だった。そういえば、『必殺仕掛人』が始まったのが72年だったね」
「金で怨みを晴らしてくれる殺し屋が主人公というのは、それまでにないヒーロー像よね」
「高度成長により会社社会が確立し、裏の世界でスゴ腕を見せる“必殺”の主人公たちは、個人では動きのとれなくなったサラリーマンたちの夢だったんだよ。同じように“あっしには関わりのないことでござんす”と言いながら関わりを持って弱者を助ける『木枯し紋次郎』もそうだったね。体制からハミ出た主人公にサラリーマンは共感を持ったんだ。警視庁でなく七曲署の刑事が活躍する『太陽にほえろ』も、浪人が体制側の悪人をやっつける『荒野の素浪人』もそうだね」
「『太陽にほえろ』は石原プロで、『荒野の素浪人』は三船プロだけど、スター・プロの作品がテレビに進出してきたのは、この頃なの?」
「テレビ放送が始まって20年も経つと、テレビ番組も放送局が制作していた時代から、番組制作部門を切り離し、プロダクション化していく。要は番組制作の外注だよね。営利企業として、人件費を中心とする経費削減と合理化が必要になってきたんだ。だから、スター・プロの作品だけでなく、色々なプロダクションが制作した番組が流されるようになる。テレビ局は番組を製造するのでなく、仕入れて売るようになってきたんだ。番組の質はプロダクションに委ねられ、1972年以降にも人気番組はあるけど革新的なものはあまり見当たらないね。テレビにおける新しいことは、誕生から20年間で出つくした感じなので、貴女への話もここらで終りとしよう」
参考資料:テレビ50年(東京ニュース通信社)、テレビ史ハンドブック(自由国民社)
2006年3月31日更新
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