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「ポップス少年」タイトル

リトル・R・オノ

第16回
「スウィンギング・スクール」とは
およそかけ離れた中学校生活

※ラジオ版ポップス少年黄金(狂)時代  絶賛放送中!

ラジオ版・ポップス少年黄金狂時代(60年代こだわりのバラード)
http://www.maboroshi-ch.com/hoso/item-29.html

第2回ラジオ版ポップス少年黄金(狂)時代〜前編
http://www.maboroshi-ch.com/hoso/item-26338.html

第2回ラジオ版ポップス少年黄金(狂)時代〜後編
http://www.maboroshi-ch.com/hoso/item-26424.html


秋の大収穫祭〜ラジオ版ポップス少年・スペシャル〜前編
http://www.maboroshi-ch.com/hoso/item-28412.html


秋の大収穫祭〜ラジオ版ポップス少年・スペシャル〜後編
http://www.maboroshi-ch.com/hoso/item-29164.html



 62年4月に世田谷区立深沢中学に入学した。3年間同じクラスだった小学校生活に別れを告げ、近隣の小学校から集まってくる新しいクラスメイトとの環境に慣れていけるのか、人見知りの激しい私ははなはだ心もとなかった。小学時代の仲間はクラスにW辺しかいなかったが、席が遠いのであまり行き来しないようになる。必然、席の近くに新しい友達を求めたいが、なかなかできない。
 友達をつくるのに一番いいのはクラブ活動だが、これに失敗した。バスケットボール・クラブに入るつもりが、入部者が多すぎたので、ぎりぎりまで迷った末、陸上部に入ってしまった。走ることが好きだったわけではないが、走り高跳びが一番だったから、中学ともなれば特別な練習がやれて、より高い記録が出るんじゃないかと思ったのだ。ところが毎日ただ走るだけだった。考えてみれば陸上部は走りが命だから当たり前のことだ。次第に部活から遠のいていく。バスケ部の練習を覗くと新入生部員がうじゃうじゃいたので改めて入部する気にもならなかった。
 結局友達も出来ずにいわゆる帰宅部のようになる。時間ができた分、勉強をマトモにやりだす。小学校の時は体育と音楽以外で良かったのは算数だけだったから、何としても初めて接する英語だけでもトップを目指した。予習復習をほぼ毎回やった。得意の数学は予習だけ、あとの主要三科目は復習だけ、という感じだが、席が2列目だったこともあり、授業も集中して聞いた。その甲斐あって中間テストはバツグンの成績を残した。答案を返す時に点数を公表する教師が多かったから成績のいい悪いがバレてしまう。“無印”だった私に対するクラスメイトの評価は、テスト後は“真面目で勉強ができる子”というふうに変化した。

男ばかりの誕生日会

桜町小学校の卒業式を終えて
 クラスの仲間との記念写真を撮るというので、私は自分が表紙の版画を描いた卒業文集が見えるように胸に掲げた。みんな中学校の学生服を着て卒業式に出たんだね。

 しかしプライオリティとして勉強が一番であるわけがなく、一番の優先はポップスを聴くことに変わりなく、夕食前まではひたすらレコードを聴き、夜はラジオで洋楽番組を聴くという毎日を続けた。テレビを遅くまで見せてくれないので夕食後は早めに自室にこもり、イヤホーンでラジオを聴く(この頃はまだゲルマニウム・ラジオで聴いていたような気がする)。いつも一緒にラジオを聴いていた次兄が高校受験のため、土曜日のFEN以外は一人で聴いていた。いずれにしても洋楽番組しか聴かないからずっとラジオを聴いているわけではないが、洋楽番組があるときはたとえ試験勉強中であろうが聴く事のみに集中する。

 ジェームス・ダーレンの「恋も涙もさようなら」の次に好きになってシングル盤を買ったのがジーン・ピットニーの「ルイジアナ・ママ」だった。この曲は言わずと知れた日本だけのビッグ・ヒットで本国ではシングルB面の曲だったが、当時はそんなこと知らない。日本のヒット番組で聴いてすぐに気に入り、桜新町から玉電に乗り三軒茶屋のレコード屋で買った。
 ジーン・ピットニーはこの曲のあと「非情の町Town Without Pity」(62年1月全米13位)「リバティ・バランスを撃った男(The Man Who Shot)Liberty Valance」(62年6月4位)「恋の1/2」(63年2月9位)「メッカMecca」(63年5月12位)などが日本でも少しヒットした。その後も本国では結構ヒット曲を出しているが、「ルイジアナ・ママ」が本国でヒットしていないことが災いしたのか日本では評価があまり高くない。リッキー・ネルソンの「ハロー・メリー・ルー」(61年5月9位)やクリスタルズ「ヒーズ・ア・レベル」(62年11月1位)などコンポーザーとしても能力があったのに。何オクターブも出る声と言われ「恋の1/2」「恋の痛手」などバラードに名曲が多い。

「ルイジアナ・ママ」Louisiana Mama

「ルイジアナ・ママ」 Louisiana Mama
ジーン・ピットニー

ヒッカップ唱法で歌うアップテンポな歌唱は英語で歌おうにも追いつけなかった。それはプロでも一緒で、「♪from New Orleans」とは歌えず「ホニオリン」になってしまうのだった。


「ぼくと月とキューピッド」Mr.Moon,Mr.Cupid

「ぼくと月とキューピッド」 Mr.Moon,Mr.Cupid
ジーン・ピットニー

このシングルもアメリカではAB面が逆で「愛の息吹きEvery Breath I Take」が61年9月に42位の小ヒットとなる。


「恋の1/2」Half Heaven-Half Heartache

「恋の1/2」 Half Heaven-Half Heartache
ジーン・ピットニー

このバラードは当時ものすごく好きだった。今聴くとドラマチックすぎてちょっぴり恥ずかしいかな。


「恋のジュークボックス」If I Didn`t Have A Dime

「恋のジュークボックス」 If I Didn`t Have A Dime
ジーン・ピットニー

この曲は58位まで上ったが、バート・バカラック作のB面「恋の痛手Only Love Can Break A Heart」がアメリカではA面で62年11月に2位まで上る大ヒットに。


 続いて好きになったのはボビー・ヴィー。当時“スリー・ボビー”と呼ばれるアイドル系歌手が3人いた。ボビー・ダーリン、ライデル、そしてヴィーという順番だが、最初に成功したダーリンは「スプリッシュ・スプラッシュ」(58年8月3位)や「ドリーム・ラヴァー」(59年6月2位)などのポップ・ヒットの後に「マック・ザ・ナイフ」(59年10月1位)が大ヒットしてから大人の歌手になってしまった。日本ではすでに大人だった高島忠夫がアフター・ビートで指鳴らしながら嬉しそうな顔でよく歌っていた。イメージとしてはジャズで、ポップス少年の枠外だった。
 ライデルも歌い方が大人の歌手然としていて、さらにヒット曲がイタリア曲の「ボラーレ」(60年9月4位)やラテン曲「キエンセラ」の焼き直しの「スウェイ」(60年12月14位)などアメリカン・ポップスとはちょっとズレたものが多かった。「ワイルド・ワン」(60年3月2位)「スウィンギング・スクール」(60年6月5位)などティーン向けもあったが、明るいだけでしっとり感がまるでない雰囲気が私にはいまいちだった。最後のヒット曲「フォーゲット・ヒム」(64年1月4位)ぐらいだ、良いと思ったのは。その曲のあとにピーター&ゴードンのデビュー曲「愛なき世界」をカバーしたが、ブリティッシュ・ビートらしさを完璧に消し去った、歌い上げるような歌い方が気に入らなかった。
 その点、ボビー・ヴィーはまず声が良かった。ティーン向けと言ってしまえばそれまでかもしれないが、微妙なビブラートに切なさがあった。「ラバー・ボール」(61年1月6位)はタイトルのとおり弾むゴムボールのような軽快さの中にいかにもアメリカ娘っぽい女性コーラスが絡み、ヴィーのヴォーカルがいろいろな表情をみせ、これも一発で気に入った。日本では大分遅れて翌62年にヒットした。我々はシングルを我慢してしばらくしてベスト・アルバムを買った。今聴いても十分いいのは、ヴォーカルが二重になったり一人でハモったりしていてかなり良質なレコーディングがなされているからだ。これはプロデューサーのスナッフ・ギャレットの手腕かもしれない。
 「サヨナラ・ベイビーTake Good Care Of My Baby」(61年9月1位)は「ラバー・ボール」に続く大ヒット曲でゴーフィン/キング作品の2曲目の1位曲でもあるが、構成が「ポエトリー・イン・モーション」と同じ感じで楽曲的にはより洗練されていた。他にも「天使か悪魔かDevil Or Angel」(60年10月6位)、「ラン・トゥ・ヒムRun To Him」(61年12月2位)、「バーバラのことは聞かないで(確かこんな邦題だったが違うかもしれない)Please Don`t Ask About Barbara」(62年4月15位)など、ベスト・アルバムに入っていた曲すべてが良かった。特に「バーバラ〜」はシンプルながらもギターの音色やハモの付け方などアレンジが最高でヴォーカルも切なさ満載だった。バディ・ホリーを下敷きとしていたことを当時は知らなかったのだが、LPに入っていた「エヴリデイ」は後にホリーのオリジナル・バージョンを聞いたらまるで生き写しのようだった。

「ラバー・ボール」Rubber Ball

「ラバー・ボール」 Rubber Ball
ボビー・ヴィー

B面は「モア・ザン・アイ・キャン・セイMore Than I Can Say」(61年3月61位)で、80年12月にレオ・セイヤーが「星影のバラード」の邦題でカバーし全米2位の大ヒット。


「燃ゆる瞳」The Night Has A Thousand Eyes

「燃ゆる瞳」 The Night Has A Thousand Eyes
ボビー・ヴィー

63年2月に3位の大ヒット。繊細な味のヴォーカルが魅力なのだが、この曲だけは明るいアップテンポのパンチのあるナンバー。


 中学生になりちょっと大人に近づいたせいかもしれないが、ちょうど「愛さずにはいられないI Can`t Stop Loving You」が大ヒットしていたこともあり、この盲目の“Soul & Genius”レイ・チャールズの歌声にシビレてしまった。ボビー・ヴィーとレイ・チャールズが同居してしまうところが不思議だが、“砂漠に水”と同じで飢えた洋楽少年には何でも吸収されていったということだろう。
 レイ・チャールズは何と言っても「なんと言ったらWhat`d I Say」(59年8月6位)が有名で、途中のコール&レスポンスも本物はめちゃくちゃカッコいいのだが、当時日本人歌手もショーの最後にこの曲をやって客席に「ンーン」「アーア」と掛け合いを強要したものだった。やればやるほど見てる方としては大いに白けた。乗せるほうもヘタだし客席も乗れてないし、見ていて恥ずかしかったなあ。日米文化の隔たりを感じた瞬間だった。60年代初めからグループサウンズの頃までこの曲をエンディング・フィナーレで歌うパターンが続いたと思う。余談だが、それ以降のロックの時代になるとエンディングでは猫も杓子も「ジョニー・B・グッド」を演奏するようになる。これも「またかよ」という意味で白けた。いずれも名曲を殺してしまった感がある。

 レイ・チャールズは64年に初来日するが、当時名古屋にいた中三の私は学生服を来て2歳上の兄と連れ立って名古屋市公会堂まで見に行った。席は一階の後ろから2列目で、初めて経験する外タレのコンサートは、周りはネクタイをしめたサラリーマンと、恋人同士のようなカップルばかりで、高校生以下は私たち2名だけだった。ステージ上はレイ・チャールズ・オーケストラとコーラスのレイレッツとピアノのレイ・チャールズとすべて黒人で、客席はすべて大人。日常と違う異空間に放り出された感じで、感動を味わうには余裕がなさすぎた。

『レイ・チャールズ全集/第1集』

『レイ・チャールズ全集/第1集』
事前学習も兼ねて来日直前に買ったベスト・アルバム。収録曲は「愛さずにいられない」「わが心のジョージア」「泣かずにいられない」「旅立てジャック」「打ちのめされて」「マイ・ハート・クライズ・フォー・ユー」「ぼくは自由(アンチェイン・マイ・ハート)」など。なかでも「ラッキー・オールド・サン」が出色、泣けた。




※印  画像提供…諸君征三郎さん



2008年12月10日更新
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