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「ポップス少年」タイトル

リトル・R・オノ

第10回
西部劇と主題歌に興奮する小学生


 外遊びが大好きな小学生も雨の日は友達とは遊ばずに自宅にこもり、よく一人遊びをしたのだが、暇をもてあますことなく私にはいくつか遊び道具があった。といっても今のようにゲームの類があるわけでもない。ほとんどがお手製。よくやったのは例えば野球ゲーム。大きなカレンダーのようなしっかりした紙の裏を使い、ホームベース、一塁、二塁、三塁、ピッチャー・マウンドを描き野球場を作る。その野球場に、アウトのスペースとヒットや二塁打、三塁打のスペースを描いていく。マッチ棒を5ミリほどに小さく折り球にして、それを左の指でホームベースに向かって投げる。右の人差し指と中指の間にマッチ棒を挟んで親指に引っ掛けてその球を打つ。思いっきり打てば場外ホーマーになるが、バッターの資質に合わせて加減して打つ。ほとんどが中日VS巨人戦で、9回までドラマを作るのだ。毎回中日が勝つのだが、いかにドラマチックに勝つか、アナウンサーと解説者の二役を兼ねて実況放送しながらやっていく。これが楽しいのだ。

野球選手になりたかった少年時代

野球選手になりたかった少年時代
夏休みは毎朝こうして素振り100本。てなわけはないが、当時の少年はみんな野球選手になりたがった。

 日曜日はたまに映画を見に出かけた。ほとんどが洋画で、何といっても西部劇が中心。どんどんアメリカ文化に心奪われていくのだ。『シェーン』のアラン・ラッドが、ガンベルトから銃を抜いて撃つまでの間が世界一速い(0,3秒だったか?)ことを知り、我々兄弟もガンベルトとモデルガンを買い、鏡の前で早撃ちを練習した。日本では宍戸錠が一番で0,4秒とか、忘れたが、さすがアラン・ラッドは違うなどといいながら練習に励んだ。そういえば低学年の頃は、ロビン・フッドを真似て庭の竹をノコギリで切って弓と矢を作って遊んだ。竹の空洞を生かしてケースを作り、矢を何本か入れて背中に紐でくくり、矢を射てはすばやく背中に手を伸ばして矢を取りすぐに射る、という早撃ち?練習をした時期もあった。ああ古きよき時代よ。
 60年の終りかけぐらいか61年の正月映画だか渋谷のパンテオンで上映していた『アラモ』を、ジョン・ウェインの初監督作品ということもあり期待に胸膨らませて観にいった。デイビー・クロケットに扮するお目当てのジョン・ウェインよりも、ナイフ使いの名手を演じたリチャード・ウィドマークの方がシブくカッコ良かった。ローレンス・ハーヴェイの軍服姿も凛々しく決まっていた。アイドル歌手フランキー・アヴァロンが映画の中でギターを弾きながら「♪オーリサ スウィート リサ」と優しく歌う「テネシー・ベイブ」にしびれ、両面挿入歌のシングル盤「レディーがお好きb/wテネシー・ベイブ」を買った。こういう場合我々は、フランキー・アヴァロン好きが高じて、遡って「ヴィーナス」や「ホワイ」など全米No.1ソングを買い揃えていくのが今までの流れだったが、何故かそうしなかった。古い曲よりも新しい曲を追いかけるのが先決だったからだろう。

『レディーがお好きb/wテネシー・ベイブ』

『レディーがお好きb/wテネシー・ベイブ』
Here`s To The Ladies/Tennessee Babe フランキー・アヴァロン

 戦争中なのに砦の中で歌なんか歌っちゃってアメリカ人はやっぱ違うなと感心したりもしました。

 『アラモ』のもう一つのお目当ては、「グリーンフィールズ」の大ヒットを飛ばしているブラザーズ・フォーが映画の主題歌「遙かなるアラモ」を歌っていたこと。ブラフォーは初めてフォークソングを知るキッカケになったグループである。もちろん、キングストン・トリオの「トム・ドゥーリー」(58年、1位)は知っていたもののフォークソングとして理解していたわけではなかった。ただし「グリーンフィールズ」(2位)のようなフォークソングがヒットしたからといって、日本でもすぐにフォーク・グループが出現してカバーすることはなかった。「フォークソングとは日本で言うところの“民謡”」と紹介されていたから、ピンとこなかった。我々にとっては新しい音楽としか思えなかったからだ(民謡といったら「♪ドンドーンパーンパーン ドンパーンパーン」の「ドンパン音頭」をよく素人がテレビで歌っていたし)。時代はまだ、ウエスタン・バンドがロカビリー・バンドに鞍替えしてそんなに経っていない頃である。「グリーンフィールズ」は伊藤素道とリリオ・リズム・エアーズがレコード化しているようだが、テレビなどではダーク・ダックスなどいわゆるコーラス・グループが歌ってた気がする。「遙かなるアラモ」などはフォーク扱いでもなくハーモニーを聞かせる曲でもなく、ポップスの一つとして普通に小坂一也やかまやつヒロシ、坂本九などがソロで歌っていた。

『グリーンフィールズ』

『グリーンフィールズ』
Greenfields/ザ・ブラザーズ・フォー

 ワシントン大学の学生グループで、清潔でユーモアのある優等生タイプだったため日本では特に好かれ何度も来日した。 B面のジョニー・マティスは日本では目立たなかったものの本国アメリカでは「ワンダフル・ワンダフル」「恋のチャンス」「お目当てちがい」(いずれも57年)などの大ヒット曲があり、LP『ジョニーズ・グレイテスト・ヒッツ』は当時ビルボードのアルバム・チャートに490週もランクされていたというほどの人気歌手だった。



『遙かなるアラモ』

『遙かなるアラモ』 The Green Leaves Of Summer /坂本九
 訳詞はみナみかズみ(後の安井かずみ)。「♪ルンナ・ルナ・ルナ・ルン」と歌われるB面「夢のナポリターナ」はイタリア歌手マリノ・マリーニのカバーだが、ザ・ピーナッツのバージョンが一番お馴染みか。

 さらに映画『アラモ』の中で流れた「皆殺しの歌」、これはジョン・ウェイン主演の前作『リオ・ブラボー』でも使われた曲だが、メキシコ軍に全員殺される場面に相応しかったためか『アラモ』でも使われた。哀愁漂うこのインスト・シングルも買ってしまった。『アラモ』がらみで随分散財してしまった兄弟であった。ちなみに3曲とも作曲は、「ローハイド」や「OK牧場の決闘」と同じディミトリ・ティオムキンだ。ティオムキンの印税収入にも随分協力しまったわけだ。        

『皆殺しの歌』

『皆殺しの歌』
De Guello/ネルソン・リドル・オーケストラ

 トランペット奏者のマニー・クラインをフィーチャーした楽曲。死を弔うような哀しい響きが小学生にもジーンときた。

 ジョン・ウェイン映画『アラモ』の次は『アラスカ魂』を観にいった。映画自体はたいしたものじゃなかったが、全米で大ヒットしていた主題歌が気に入りシングル盤を買った。「ニュー・オルリーンズの戦い」(59年、1位)「ビルマルク沈みぬ」(60年、3位)のヒットを持つカントリー・シンガー、ジョニー・ホートンの歌は、力んだだみ声とヒカップ唱法の使い分けが実に曲に合っていて、「ウェイ・アップ・ノー」というコーラスも小気味良く、古びたカントリー臭を感じなかった。ジョニー・ホートンは、可哀相にこの曲のヒット中に事故死してしまう。

『アラスカ魂』

『アラスカ魂』
North To Alaska/ジョニー・ホートン

 いかにもウエスタン歌手然とした面持ちのジョニー・ホートン。B面のマーティ・ロビンスはアメリカのカントリー・チャートでは常連で、「ローハイド」のB面の「エル・パソ」(60年、1位)はグラミー賞を受賞した最初のカントリー・ソング。なのにかわいそうに日本盤ではいつもついでのような形のB面御用達シンガーだった。

 お茶の間のテレビでも西部劇が活躍した。古くは“ハイヨー、シルバー!”の『ローン・レンジャー』から始まり、『ローハイド』『拳銃無宿』などは夢中になって見た。さらに『ボナンザ』『シャイアン』『ライフルマン』『ララミー牧場』など次々と始まった。『ボナンザ』は母親の居ないカートライト一家の物語(途中で『カートライト兄弟』と改題された)で、アメリカでは14年間放映され、64年から3年間人気ナンバー・ワンのテレビ番組だったという。父役がローン・グリーンで、番組の人気絶頂期に「リンゴー」(64年)という語りのシングルをバリバリの超低音ボイスで吹き込み全米1位の大ヒットを飛ばすことになる。また、後年『大草原の小さな家』で物分りの良い父親役を務めるマイケル・ランドンも三男役で出演していた。いかにもワクワクしそうな雰囲気を醸し出していた主題歌(アル・カイオラ楽団)も全米20チャート入りするヒットを飛ばした。
 『シャイアン』も『ライフルマン』も、主人公がいかにもアメリカらしく“ごっついけど心優しい”という共通項を持っていた。『シャイアン』のクリント・ウォーカーは2メートルの大男。小坂一也が歌う『ライフルマン』の主題歌「無敵のライフルマン」はあまりいただけなかったが、元大リーガー、チャック・コナーズのウィンスター銃を振り回すさばき方は迫力があった。コナーズの子供の役で出ていたジョニー・クロフォードは61年に「デイドリームズ」で歌手デビューし、「シンディーズ・バースデイ」(8位)「冷たいあの娘」(14位)「ルーマーズ」(12位)と何枚かシングル・ヒットを飛ばす。日本では子供扱いされ?、アイドル人気というまでにはいかなかった。

『悲しい恋の物語』

『西部劇映画主題曲ベスト・テン』
BEST TEN WESTERN SCREEN THEMES/アル・カイオラ、フェランテとタイシャー、ドン・コスタ、ジェローム・モロス楽団など

 映画の主題歌好きが高じて10曲入り25cmLPを買った。「荒野の七人」「ハイ・ヌーン」「荒馬と女」「大いなる西部」「荒野の決闘」「許されざる者」などに混じってテレビ「ボナンザ」の主題歌も入っていた。

 日本のアメリカ番組史上トップ・クラスの人気を誇った『ララミー牧場』は、『シェーン』のアラン・ラッド同様流れ者の主人公ジェス・ハーパー役のロバート・フラー人気そのものでもあった。絶頂期の61年に来日も果たしている。放送終了前に必ず登場し「サイナラ サイナラ サイナラ」とニギニギしながら終る映画解説の淀川長治がこれですっかり有名になった。映画解説ではその後“おばちゃま”こと小森和子がやはり“変さ加減”で有名になり、その伝統は現在おすぎに受け継がれている。 のほほーんとした感じのテーマ曲もいまいちピンとこなかったが、我が家では『ララミー牧場』を何故かあまり見た記憶がない。普段は8時までしかテレビを見せてもらえなかったから、多分8時からの放映だったのだろう。放映日の翌日、クラスでは話題がもちきりになったが、話についていけなかった口惜しい思いが残っている。

※印 画像提供…諸君征三郎さん


2008年5月21日更新
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