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昭和49(1974)年秋、ドラゴンズ20年ぶりの優勝!

ドラ党歴43年 長良川龍一

   讀賣ジャイアンツ3連覇、おめでとうございます! 今年は投打ともに、よくぞ我がドラゴンズを痛めつけてくれたもんだ(笑)。
    ……と敵に塩を送りつつ、時計を一気に35年前の昭和49年10月12日(土)に戻す。その日、中日球場では中日ドラゴンズ対大洋ホエールズのダブルヘッダーが行われた。午後8時9分、ホエールズ・山下大輔のライナーをサード島谷金二がキャッチしてゲームセット(D6-1W)! マウンドの星野仙一が吼え、キャッチャー木俣達彦が飛びついた。この瞬間、ドラゴンズの20年ぶり2回目の優勝が決まり、管理野球の権化=川上哲治監督率いる讀賣の10連覇を阻止したのだ。
   当時、中学3年生の私は、学校を休んで(!)岐阜の郡上の山奥から高山本線の急行に乗って中日球場に馳せ参じ、この歴史的瞬間に立ち会った。なぜ、オヤジがプラチナペーパーを入手していたのかは定かではないが、憎っき讀賣と壮絶なデッドヒートを繰り広げた末の優勝(最終的にはゲーム差なしの1厘差!下表参照)だけに、3万5千人、超満員のスタンドは上へ下への大騒ぎだ!
   内・外野から金網をよじ登って多くのファンがグラウンドになだれ込み、一塁側内野席の上段に陣取っていた私も駆け下りて、誰かれ構わず抱き合って、ドラゴンズの優勝を祝った(中学生だから、振る舞い酒は飲んどらせんと思うが、たぶん……)。
   さて、そんな思い出深い昭和49年。今や定番となった応援歌『燃えよドラゴンズ』が初リリースされた。演歌調のイントロに乗ってドラのOB板東英二が味のある(……としか言いようがない)調子で「♪1番高木が塁に出て、2番谷木が送りバント、3番井上タイムリー、4番マーチンホームラン♪」と、打順に沿って選手の名前を歌いあげた。
   阪神タイガースの『六甲おろし』のように普遍的な歌詞ではないだけに、以後、リリースされる各年度版の歌詞を見れば、その年のドラゴンズの陣容がわかるという画期的な応援歌なのだ(ただし、選手が毎年入れ替わるので、同じバージョンが出せないのが玉に瑕……)。
   ちなみに20年ぶりの優勝を決めた2日後の10月14日、ドラゴンズナインが地元・名古屋で盛大に優勝パレードを繰り広げている同時刻、後楽園球場では中日vs讀賣ダブルヘッダーが行われた。“チョーさん”長島茂雄はこの試合で現役引退を表明した。

◇セ・リーグ順位表
優勝 中日70勝 49敗11分 勝率.588 勝差 −
2位  讀賣71勝 50敗 9分 勝率.587 勝差 0
3位  ヤクルト60勝 63敗 7分 勝率.488 勝差 12.0
4位  阪神57勝 64敗 9分 勝率.471 勝差 14.0
5位  大洋55勝 69敗 6分 勝率.444 勝差 17.5
ドベ  広島54勝 72敗 4分 勝率.429 勝差 19.5

【逸品解説1】名古屋では売り上げナンバー1に輝いた『燃えよドラゴンズ』。あれよあれよという間に4人で3点をもぎ取る痛快な歌詞は、今でも私の闘争心を刺激する。右は優勝記念メダルのパッケージ。
   ちなみに同年のヒット曲は「二人でお酒を」梓みちよ、「学園天国」フィンガー5、「私は泣いています」りりぃ、「闇夜の国から」井上陽水、「妹」かぐや姫、「結婚するってほんとうですか」ダ・カーポ、「岬めぐり」山本コウタローとウィークエンド、「ひと夏の経験」山口百恵、「わたし祈ってます」敏いとうとハッピー&ブルー、「ふれあい」中村雅俊、「傷だらけのローラ」西城秀樹、「よろしく哀愁」郷ひろみ、「甘い生活」野口五郎、「東京」マイペース など歌謡曲&フォークとも懐かしいったらありゃせんがや!


【逸品解説2】 讀賣を追われてドラゴンズの監督になったのは名将・水原茂に次いで2人目の与那嶺要(通称「ウォーリー・ヨナミネ」)。これは中日球場で頂戴した与那嶺監督のサイン(隣は名二塁手、高木守道のサイン)。
   この頃は開門前に球場に行って、マイカーで球場入りする選手を駐車場で待ち構えていた。どの選手も、子ども相手ならけっこう気さくに応じてくれたものだ。選手はこうでなくちゃいかん!


【逸品解説3】小学生高学年の頃、ダメもとで球団宛に高木守道へ年賀状を出したところ、なんと直筆の返事が来て、以後数年にわたって年賀状のやり取りをした。もちろん大事な宝物で、学校で友達に大いに自慢しまくった。
   ハガキの切手が「7円」から「10円」「20円」と変遷しているのが当時を偲ばせる。郵便番号も3ケタだ。

【逸品解説4】ドラゴンズの優勝は、昭和49(1974)年のあとは8年も待たされて昭和57(1982)年(近藤貞雄監督)。この年は既に上京して大学生となり、胴上げまでの神宮球場〜横浜スタジアム4連戦を通いつめた。そのあとは6年後の昭和の最後63(1988)年(星野仙一監督)。
   せっかく優勝したのに天皇が病に倒れていたのでビールかけ自粛で迷惑なことこの上なし……。これは優勝記念に発売された「マイルドセブン」(背景は演出用の名鉄・岐阜市内線のレトロ車両)。

【逸品解説5】その後、出版社に就職し、企画のなかに強引にドラネタをからめて、念願の星野仙一監督インタビューにこぎつける(横浜スタジアムにて)。当時の仙ちゃんは後光が差しとったし、オレも若かった(笑)。そして当時、ドラキチ編集長S氏が独断で表紙を作ったコミック誌『ヤングジャンプ』。

【逸品解説6】昭和から平成に移った1994年、讀賣の長島茂雄監督をして「国民的行事」と言わしめた、“勝ったほうが優勝だがね”という天下分け目の「10.8(“じゅってんはち”と読む)ナゴヤ決戦」。
   残念ながら元ペンパルの高木守道監督率いる我がドラゴンズは力尽き、地元で敵将の胴上げを許すという屈辱にまみれた。これは東京中日スポーツが、翌日の駅売店に貼る予定だった貴重なPOP。日の目を見なかった代物だけに、今見ても涙が止まらん……。

【逸品解説7】 “臭い・狭い・野次が汚い”と三拍子そろった野球オヤジのオアシス=中日球場(最初は中日スタヂアム、のちにナゴヤ球場と改名)。しかし世の流れに逆らえず、野球をするには邪道なドーム型球場・ナゴヤドームとなったのが1997年。私は既に結婚していたが、カミさんと乳飲み子を置いて意気揚々と駆けつけたのが“こけら落とし”にして、「名ストッパー・郭源治」の引退試合。
   当然のことながら、その夜は名古屋のドラ仲間と“延長戦”に突入し、翌日、二日酔いのまま帰京。新横浜で「崎陽軒のシウマイ」を手土産にしたのだが、なぜかカミさんはご立腹で、以後3日間、口をきいてもらえんかった……。件の乳飲み子は今、中学の野球部でボールを追っているのだから、ま、いっか(笑)。


2009年10月1日更新


昭和49(1974)年秋、ドラゴンズ20年ぶりの優勝!