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「脇役列伝」タイトル

ヒーロー研究家立石一夫

悲劇の伊達男<Xイート・ダディ・シキ


悲劇の伊達男<Xイート・ダディ・シキ

 1960年は日本プロレス界にとって、大きなターニング・ポイントとなった年だろう。当時エースの豊登が、年末に社長の座を追われた。そして次期エースであった、東洋の巨人G馬場は、米国からの刺客であるザ・ブルーザーを破ってインタヘビー級の王座を獲得。名実共に、馬場時代を築く第一歩となった。
 この年行われた、春の本場所第7回Wリーグ戦は、豊登がブラッシーを倒し2連覇。だが彼にとって最後の優勝となる。このWリーグ戦でブラッシー以上に、来日を楽しみにしたのが、スイート・ダディ・シキだ。それまでにも私は、プロレス雑誌でシキの名を目にした。まだ見ぬ強豪の一人で、写真は月光仮面ばりのサングラスがトレードマークで有名であった。黒人でありながら髪を金色に染め、ド派手でとっぽいレスラーであった。だが決してコケおどしではなく、その実力は米マット界でも知られていた。
 何しろこの男のドロップ・キックは素晴らしかった。日本人では遠藤や、吉村のそれが有名であったが、彼らの上をゆくジャンプ力に私は心底ぶったまげた。連続2連発の切れ味に、日本人側は大いに苦しめられた。この男と、2年前に来日したパット・オコーナーのドロップ・キック(スカイ・ロケットの別名)は、他の追随を許さぬものがあった。
 鍛え抜かれた褐色の肌は、プロレスラーになるために生まれて来たと思われる。
 馬場という人は、小柄なレスラーをやや苦手にしたようだ。シキのドロップ・キックに手こずり、マノキャンの粘着ファイトにリーグ戦は30分ドローに終わった。決勝戦は兄貴分の豊登が進出。大技手の金田が、牛若丸の吉田を持て余したのにも通じるようだ。
 あるプロレス評論家の本で、巡業先の旅館でデストロイヤー、ライオンらの白人と日本人関係者が楽しく一杯やっていた。シキも部屋に入ろうしたら、デストロイヤーらに一喝されて自室に戻ったと書いてあった。米国の人種差別の壁は日本でも取り払われなかったようだ。


昭和40年4月来日、第7回Wリーグ戦で4勝1敗の好成績を上げる。西インド諸島ジャマイカ生まれ。実力派ショーマン、ブラジル、ライトと並ぶ、黒人3人男。


おいちゃんは俺だ、森川信
非運のレスラー、G草津
当たり役、風車の弥七・中谷一郎
写真判定男、中村剛
柏鵬時代の反逆児、若羽黒朋明
”たこでーす”たこ八郎
重厚味満点の悪役、高品格
褐色の弾丸・房錦と潜航艇・岩風
黒い核弾頭、ルーター・レンジ
南部のタッグ屋、グラハム&ステンボート
女をなぜなぜ泣かすのよ、城卓矢
教師から俳優へ、戸浦六宏ロッコウ
フックの職人、勝又行雄
当たり役、沢田部長刑事の芦田伸介
名タッグ屋ハードボイルド・ハガティ
名唱ジャイアンツを偲ぶ
2人のもろ差し名人
ニヒルな敵役・成田三樹夫
女性コメディアンの第一人者・若水ヤエ子
知的でとぼけた名優・有島
哀愁のモゲラ
悪役・進藤英太郎賛歌


2005年8月24日更新
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