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第4回 上野駅から両国橋まで
〜下町商業地域を訪ねて〜


−上野動物園見学後、再びバスに乗り込みます。
山手線のガードをくぐると左手に上野駅 が見えてきました−

上野駅・上野駅
 左手に見えますのが、東北方面からの玄関上野駅でございます。この駅は明治16年高崎線が熊谷に通じた時に開かれました。今では東北線・信越線・上越線・常磐線などが皆ここから出ております。1日の乗降客は約22万人、発着します電車と列車は約1400本と申します。東京から各地方へ通じます遠距離鉄道の起点としては、東京・上野・新宿・両国の4駅があります。中でも上野駅にまいりますと方面が多いため、いろいろな地方の匂いをかぐことができます。啄木が、
昭和の上野駅

ふるさとのなまり懐かし停車場の
人ごみの中にそを聞きにゆく

と歌ったのも、この駅の特色をよく出しております。

・稲荷町、浅草本願寺
 バスは、浅草通りを一路浅草へとまいります。上野台地からこちらはもともと隅田川河口に沿った低湿地で、浅草付近だけ小島のようになっていて鎌倉時代から観音様を中心に門前町として賑わっておりました。稲荷町から松清町(まつきよちょう)にかけての池や沼は江戸時代になって埋め立てられて、そこに武家屋敷や寺院がつくられるようになりました。江戸城を広げた際にそこにあったお寺を全部こちらへ移したため、松清町は俗に「寺町」と呼ばれています。その中心である浅草本願寺の門前には、仏壇商が軒を並べております。


・雷門、仲見世、浅草寺

雷門
浅草仲見世(昭和34年)
昭和34年の浅草仲見世

 浅草寺の目印である雷門が見えてまいりました。ここでバスを下りて浅草寺周辺を見学します。
 雷門は慶応元年(1865)に焼失しましたが、本年昭和35年5月3日に95年ぶりに再建されました。門の右に風神様、左に雷神様の像が安置され、正式名は「風雷神門」。松下電器の松下幸之助さんが寄進されたそうです。ここをくぐると土産物店が左右に並んでいます。ここを「仲見世」といい、江戸時代から続いている老舗もあります。
つきあたりにある鉄筋コンクリート造の大きなお堂が、浅草寺の本堂です。昭和33年に再建されたもので、中には推古天皇36年(628)に漁師が川から引き揚げた秘仏の聖観世音菩薩像がおまつりされています。本堂再建の時、奈良時代の布目瓦(瓦の表面に布目を押しつけた模様がつけられている)が掘り出されましたが、これも浅草寺の古さを示しているのでありましょう。

・花やしき、六区、国際劇場
 浅草寺の裏手にまいりますと、「花やしき」があります。現在工事中で、7月に開園の予定です。花やしきは嘉永6年(1853)に植木商森田六三郎が四季の草木を植えて開設したのが始まりで、明治、大正には見世物小屋が置かれて人気を呼びました。しかし、関東大震災で崩壊、この度遊園地として再出発します。花やしきの脇の道を行くと「六区」に出ます。国際劇場(昭和34年)明治の初めに浅草寺境内を6地区に分け、第六区に演芸小屋を集めたのが始まりで、演芸場や映画館などが並んでいます。
ここを抜けて国際通りに出ると、国際劇場の大きな建物が姿を現します。松竹少女歌劇(SKD)で知られる東洋一の大劇場です。5000人が収容でき、全国の少女のあこがれの的になっています[国際劇場は昭和57年春に閉場。現在跡地には「浅草ビューホテル」が建つ]では、ここでバスに乗りましょう。

蔵前国技館跡
蔵前国技館跡

・蔵前橋
 国際通りを南へ進み、蔵前へとやってまいりました。江戸時代、ここに幕府の御米蔵があったことから「蔵前」と呼ばれるようになりました。当時は米問屋が立ち並んでいましたが、現在はおもちゃ関係の問屋が目に付きます。蔵前橋通りに入り左前方、蔵前国技館の建物が見えます[国技館は昭和59年両国に移転し、現在建物はない]川柳に、「1年を20日で暮らすよい男」とありますように、昔の本場所は1年に10日ずつ2回でしたが、一昨年(昭和33年)から本場所が「1場所15日・年6回」となったため、お相撲さん達も昔よりずっといそがしくなりました。

・慰霊堂、回向院、両国橋
 隅田川にかかる蔵前橋を渡り、本所方面にまいります。これからまいります石原町・亀沢町は、シャツ・靴下などのメリヤス工場がたくさん集まっている所でございます。ここには町内にいくつかの親工場があり、これにつながる家内工業としての下請が分業的に仕事を受け持ち、あたかも街全体が大工場のような一貫作業がおこなわれています。右側に三重の塔が見えております。
震災記念堂(昭和34年)これは東京都慰霊堂で、昭和5年に関東大震災の犠牲者のために建てられました。震災当時ここには陸軍被服廠の跡地があり、ここに逃げ込んだ付近の人達5万8千人が火災のために亡くなりました。今では太平洋戦争による戦災で亡くなられた都民約10万5千人の霊も合わせ祀られています。ここを右折して清澄通りに入ります。右手前方に見える丸い大きな建物は元の両国国技館で、最近日本大学講堂として使われるようになりました。総武線を越えたところで右折すると、ほどなく左手に回向院が見えてまいります。回向院回向院は江戸時代の明暦3年(1657)に起こった「明暦の大火(振袖火事)」の犠牲者を弔うため幕府が「万人塚」を築いたのが始まりで、その後地震の犠牲者、水死者、焼死者などすべての無縁仏を葬るお寺になりました。お寺の収入にするために余っている土地を興行物に貸すことが幕府から許され、江戸大相撲発祥の地となりました。
これから両国橋を渡ります。この橋が掛けられた300年前はこちらが下総国、向こう側が武蔵国だったので、「両国」橋と名付けられました。毎年7月にここで花火を打ち上げる「川開き」があります。[36年夏を最後に姿を消し、53年「隅田川花火」として復活]
 さて、日も暮れてまいりました。本日の見学はこれまでとして、旅館の方へまいりましょう。

       

(第4回 終)
調査協力:財団法人 日本修学旅行協会


 この番組は、昭和30年代から40年代にかけての東京を修学旅行形式で皆さんと振り返 る視聴者参加番組です。当時実際に東京見学に行かれた方も多いと思います。その時の旅 のしおりや写真、学校で書かされた感想文などがお手元にありましたらご投稿下さい。


2002年10月8日更新
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第3回 神保町から上野公園まで 〜文教地域を訪ねて〜
第2回 新宿駅から九段まで 〜山手の住宅地域と商業地域を訪ねて〜
第1回 データで見る昭和35年


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