串間努
第4回「牛乳のフタとポン」の巻
筆者のコレクションの一部
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ブームはいきなり始まる。小学生の頃、休み時間に流行する遊びは突然やってきて、急に興味が失われ、次のブームに熱中するのだ。いつかは、自分がムーブメントを巻き起こしてみたいものだと思っていたが、私が考えつく遊びはちっともみんなに受け入れられないのであった。
牛乳のフタやお酒のフタを集めることが流行したことがある。家が酒屋や牛乳屋の子がひっぱりだこになった。
机の上にフタを置き、その上に手のひらをややふくらませ、かぶせて、思いっきり
手の中の空気で吸うつもりで、フタをたたきながら引っぱり上げる。たいていはそのままだが、たまにひっくり返る。ひっくり返るとそれを貰うことができる。
「ポンッ」という擬音がぴったりだから、その遊びは「ポン」とよばれた。
また、机の上に牛乳のフタを置き、あれはいくら水平に置いたつもりでも、すきまが開いてしまうので、そのすきまに向かって「ふーっ」と息を吹いて、相手のフタをひっくり返したら勝ちというゲーム方法もあった。小さな胸の小学生には肺活量が要るので、なんども「ふーっ」「ふーっ」とやっていると頭がクラクラしてきた。
そんな戦果で得たフタは私の「宝箱」にしまって置いた。しばらくして缶を開けると、わずかに残った牛乳の水滴が腐っていて、とても強烈な匂いが鼻をついたけど。
学校給食以外の珍しい牛乳ビンのフタは珍重された。フタはどれもが同じくらいの大きさだったから、コレクションの対象にもなった。集める場合は、広く浅くではなくて、ある銘柄の月曜から金曜までの5日分一式を集めるのが「通」だった(コレクターの場合)。中にははがし易いようにアイスのカップについているような「ベロ」がついたフタもあった。お菓子やココアに付いてくるワッペンやシールはお金がかかるものだったけれど、これにはほとんどお金がいらなかったのも、子どもたちに歓迎された原因だろう。大手乳業メーカのフタは評価が低く、入手困難な、地方のフタが価値あるものであった。地方のフタは雑誌の文通コーナーなどで交換しあったり、転校生から入手するのである。
牛乳瓶を封入する栓は、大正11年から大正末期までは、ヨーロッパから紙フタを輸入していたという昭和初期から国産化が進んだようだが、当時の日本には厚さ1ミリの厚紙をつくる技術がなく、紙を張り合わせていたそうだ。その後製紙会社の開発で厚いキャップがようやく作られるようになった。
コレクションとして牛乳の紙栓のオモシロさがでてくるのは、バラエティーが豊富になってからであろう。コーヒー牛乳やフルーツ牛乳などの加工乳、乳飲料が牛乳びんに紙栓で製造されるのが昭和30年ころからなので、昭和30年代に入ってから牛乳のフタの蒐集が進んだものと推測する。
牛乳のフタは掛け紙(フタの覆い紙)とともに衛生行政の改革の歴史の影響を受けており、充填機や冠帽機の開発など、日本人の衛生観念の変遷すらそこに読み取れる好材料であるが、あまり専門的なことを書いてもナンなのでこのへんで。
平成七年の春頃にはアメリカ生まれのメンコが日本に逆上陸して流行した。
名を「バトメン」「キャラチップ」などという。
紙製バトメンを交互に10枚重ねた山に、お互いのプラスチック製バトメンをぶつけ、裏返った紙製バトメンが貰えるという遊びらしい。もともとバトメンは平成5年に商品化され、米西海岸で流行していた「ポグ」からきたものといわれる。さらに「ポグ」は、なんと「ハワイ生まれ」で、「日系人の女教師が牛乳ビンのフタを使ったメンコを教えた」のが最初だといわれる。
つまり私たちの「ポン」遊びが、どうやらバトメンにつながってしまったといえる。
なんだかニヤニヤしてしまう話ではないか。
●毎日小学生新聞を改稿
※ 『MILK CAP〜牛乳ビンのふたの本』
発行元 きんとうん出版 http://www.questroom.co.jp/kintoun/
2002年9月17日更新
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