「まぼろしチャンネル」の扉へ
「番組表」へ 「復刻ch」へ 「教育的ch」へ 「東京カリスマch」へ 「日曜研究家ch」へ 「あった、あったch」へ 「再放送」へ 「ネット局」へ
リメンバー昭和脇役列伝
ポップス少年黄金(狂)時代
オヤジが娘に語る“テレビむかしむかし”
懐かしデータで見る昭和のライフ
僕のダイヤモンド・デイズ
まぼろし通販百科
あやかし動物園
秘宝館

「テレビむかしむかし」タイトル

ノスタル爺

http://www.asahi-net.or.jp/~uy7k-ymst/

第1回 1953年(昭和28年)


 「テレビ放送が開始されてから、もう50年がすぎたのね。おとーさんがテレビを見たのはいつ頃だったの?」
 「小学校2年の時だから、昭和31年からだね。テレビ放送が開始されたのが昭和28年だから、まだ3年しか経っていない頃だよ」
 「最初のテレビって、高かったんだろうね」
 「放送開始当時は、受像機の大半がアメリカ製で30万円前後したそうだよ。大学卒の初任給が1万円あるかなしかの頃で、一般庶民には高根の花だった。2月のNHK開局時の台数はわずかに866台。8月の日本テレビ開局時で3500台というから、値段が高いのは仕方ないよね。だけど、PRのために設置された街頭テレビには黒山の人だかりができて、テレビへの関心の高さを示すものだった。現在のような大きな画面ではないので、後ろの方だと見えなかったんじゃないかな」
 「どんな番組をしていたの」
 「スポーツ中継や舞台中継が中心で、白井義男対テリー・アレンのプロボクシング世界タイトルマッチの中継では、1台のテレビに1000人の見物客が集まったそうだよ。それと、プロレスは大人気だったようだね。プロレスが見たくてテレビを購入した人が大ぜいいたんだよ。力道山って知っている?」
 「“元気が一番!”なら知っているけど」

白井義男,力道山,伊東絹子

 「その人の師匠にあたる人ね。空手チョップで外人レスラーをなぎ倒す姿に、みんな熱狂したんだ。街頭テレビに集まった人の大部分が、戦争体験しているオジさんたちで、戦争に負けて、外人コンプレックスを抱えていたからね。子供たちにとっては、テレビはまだ無縁の世界だったね」
 「家での楽しみは、何だったの?」
 「ラジオを聴くことかな。とくに夕方放送される子供番組は、日が暮れてからの楽しみだったね。暗くなったら家に帰るのは、子供たちの間でも暗黙の了解があった。それでも何かのひょうしで遅くなると、母親に叱られた。“いつまでの遊んでいるの! 人さらいにさらわれてサーカスに売られるよ!”ってね」
 「♪鐘が鳴りますキンコンカン〜を聴いていたの」
 「そんな、古い歌をよく知っているね」
 「思い出の歌番組で、何回か聴いたことがあるよ。それに、おとーさんもCDで聴いていたじゃない」
 「アハハハ、そうだっけ。この『鐘の鳴る丘』は、とーさんが生まれた頃放送されていた番組で、時代的には戦争孤児が社会問題となっていた頃なんだ。とーさんが聴いていたのは、♪ヒャラリ、ヒャラリコ〜の『笛吹童子』だね。大人気ドラマで、翌年映画化され、映画でも大ヒットしたんだよ。映画といえば、シネマスコープの『聖衣』が公開されたのが、この年だ。アメリカでは一足早くテレビの影響が映画界に及んでおり、テレビに対抗するために大画面化が行なわれたんだ。日本では、テレビの存在は、まだ軽くみられていたけどね。昭和28年といえば、公衆電話(赤電話)が初登場し、クリスチャン・ディオールのファッション・ショーが話題を呼び、ミス・ユニバースコンテストで伊東絹子が3位になって八頭身美人がもてはやされた。現在の携帯の普及、ブランド志向、スタイル重視は、昭和28年が源になっているかもしれないね」

参考資料:テレビ史ハンドブック(自由国民社)


2004年3月26日更新


[チックとタックの「あった、あったテレビ」」
俺は用心棒
スター千一夜
逃亡者
新撰組始末記
笑点
サンダーバード
ザ・ガードマン
夜のヒットスタジオ
事件記者
ザ・ヒットパレード
デン助劇場
快傑ヒーロー
格闘技ドラマいろいろ
三匹の侍
まぼろし探偵
海底人8823(ハヤブサ)
名犬リンチンチン
タイムトンネル
アニーよ銃をとれ
アンクルの女
可愛い魔女ジニー
風小僧
プレイガール
日本女子プロレス中継
豹(ジャガー)の眼
風雲真田城&おせん捕物帳
恐怖のミイラ
アラーの使者


「あった、あったチャンネル」の扉へ