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アカデミア青木

ペナント全景

第21回 夏といえば臨海学校


 小学校の夏の校外活動の中で、最大のイベントだった「臨海学校」。海のある県で育った小生は残念ながら「林間学校」しか体験できなかったが、東京都や埼玉県の小・中学校では昭和20年代から40年代半ばにかけて臨海学校が盛んだった。今回の昭和のライフでは、千葉県の鋸南(きょなん)町、富山(とみやま)町、富浦町、館山市にかけての内房地域にスポットを当て、そこで開催された臨海学校の盛衰について取り上げてみたい。

1.夏目漱石と「房州海水浴発祥地」の碑

房州海水浴発祥地碑

 明治18年、海水浴が持つ医療的な効果に着目した松本順(初代の陸軍軍医監)は、我が国初の海水浴場を、神奈川県大磯町の照ヶ崎海岸に設けた。その4年後の明治22年8月、当時第一高等中学校の生徒だった夏目漱石が、友人達と千葉県鋸南町の保田(ほた)海岸を訪れ、海水浴を楽しんでいる。漱石はその時の様子を、自著『木屑録(ぼくせつろく)』の中でこう記している。「余、房に遊びてより、日び鹹水に浴す。少きも二三次、多きは五六次に至る。浴する時、故(ことさら)に跳躍して、児戯の状を為す。食機を健ならしめんと欲すれば也。倦めば即ち熱砂の上に横臥す。温気、腹を浸して、意甚だ適(こころよ)きなり。是くの如き者(こと)、数日、毛髪漸く赭(あか)らみ、面膚漸く黄ばむ。(後略)」。当時の海水浴は、余暇を楽しむというより、きれいな空気を吸って、丈夫な皮膚を作り上げ、健康を増進するために行われることが多かった。食欲を健やかにするために子供のように渚を飛び跳ねる漱石…。町では、彼の来訪をこの地域における海水浴の嚆矢として、浜に「房州海水浴発祥地」と刻んだ碑を建てて顕彰している。

2.臨海学校のはじまり

 明治の半ば頃、東京高等師範の夏季水泳部寄宿舎が館山に建設されると、追々この地域に臨海学校が開設された。明治36年には東京高等師範附属中学校が富浦町を、39年には早稲田尋常中学校が保田海岸を訪れている。東京の旧府立第四中学校(現、都立戸山高校)は、水害によって水練ができなくなった隅田川の代わりに、富山町の岩井海岸を訪れ、43年以降毎夏ここで水泳訓練を行った。内房地域が臨海学校の場所に選定された理由としては、(1)遠浅で波が静か、(2)水がきれい、(3)海岸線が長くて収容力が大きい、(4)東京からの交通の便が良いこと、などが上げられる。
 東京と現地を結ぶ交通手段としては、明治時代には汽船が多く使われたが、大正に入ると鉄道が開通して、埼玉方面の中学校や女学校も来訪するようになった。当時の宿は貸家や貸間が主体で、海岸近くの寺院を借りる学校もあったという。

菊池寛歌碑
菊池寛の歌碑(岩井駅前)

 菊池寛は、昭和7年頃から5年間、避暑のために岩井海岸を訪れた。彼は子供達が泳ぎたわむれる姿を眺め、「遠あさの海きよらかに子等あまた群れあそびゐる岩井よろしも」という歌を詠んでいる。岩井海岸は当時から「子供の海」と呼ばれ、臨海学校が盛んに開設された。

3.戦後の臨海学校

 第二次大戦が始まると、首都防衛のために東京湾の入口である内房地域は要塞化され、臨海学校は昭和22年まで中断された。23年6月、東京都の体育課は臨海学校の復活を決定、7月20日頃から8月20日まで静岡県沼津市にある都立養護学園で学童約100名を募集する他、各区の養護学園を開放したり、学校当局や父母の希望があれば千葉・神奈川方面の小学校を借りることにした。しかし、戦争の痛手は家計にも及び、27年の時点においても、泊まりがけの臨海学校や林間学校に参加できた都内の子供は全校の約1割に過ぎなかった。だが、経済が復興するにつれて、臨海学校も次第に活況を呈するようになる。「子供の海」で知られる富山町を訪れた子供達の数は、28年に17万人、29年に15万人、30年に18万人と増加基調となり、戦争直後20軒ばかりだった民宿の数は60軒までになった。料金は3食付き1泊で小学生180円、中学生210円(30年の協定価格)。1軒当たりのひと夏の稼ぎは、最高で30万円、大半は10万円台だったという。(『朝日新聞』昭和30年7月25日付夕刊3面)

ペナント近景

 岩井海岸の臨海学校の開設は、39年に約700校に及び、一時は一般の観光客が泊まれないほどの盛況ぶりだった。そのため、都内の各区は臨海学校用の施設を現地に建設するようになった。

4.衰退する臨海学校とその理由

 昭和40年頃ピークを迎えた臨海学校の開校数は、40年代半ばになると減少に転じた。44年6月、厚生省が全国の主要海水浴場の水質状況を発表。鎌倉の片瀬・江の島や千葉県の富津海岸などが遊泳に不向きとされ、八王子市や埼玉県秩父市はこれを理由に臨海学校を中止にした。また、海の汚れ以外にも、往復の交通ラッシュや泳げない先生の増加などが臨海学校の障害となってきた。以前なら3時間以内だった都内からの所要時間が、42年頃から4、5時間へと悪化し、子供達は海に到着する前にバスの中で疲れ果てるようになった。一方、泳げない先生の増加の背景には、女性教諭の増加があった。42年の都内公立小学校の男性教諭の数は1万2821人であるのに対し、女性教諭の数は1万3068人と女性優位。当時の女性教諭にはカナヅチが多く、講習会を盛んに開いてもやっと泳げる程度で生徒の安全を確保するには心もとなかった。
 翌45年には、中央区、目黒区、港区、豊島区、練馬区などが学校によっては臨海学校を中止し、林間学校に力を入れたり、学校プールでの体力づくりをすることになった。その他の区でも臨海学校の参加者が激減したという。同年の岩井海岸の利用状況は小学校が158校(44年は228校)、中学校が16校(同22校)、保田海岸は小学校が8校(同22校)、中学校が12校(同16校)と、いずれも前年より減少した。
 ただし、海の汚染、交通渋滞、カナヅチ先生の増加は表向きの理由で、実は「事故があった場合、引率教員の責任になる」と学校が尻込みするようになったのが、真の理由のようだ。渋谷区は48年から学校主催の臨海学校を区の教育委員会主催に切り替えて、教員を「指導員」に委嘱して日当を払い、もし事故が起きても区教委が全面的に責任を負う形にした。その結果、縮小傾向の他区をしり目に、53年には区立全校の小学校22校、中学校9校が臨海学校に参加している。
 臨海学校の衰退をきっかけに、内房の各町は海水浴客に依存する「夏一季型」の観光をやめ、家族客を中心とした「通年型」の観光へと切り替えていった。「びわ狩り」や「みかん狩り」の推進、花摘みができるフラワーロードの整備、地元の取れたての魚や農産物を販売する「道の駅」の建設などに力が注がれ、今日、臨海学校が観光全体に占めるウエイトはかなり小さくなっている。

5.今後の内房の臨海学校は?

 近年、総合学習の見地から臨海学校が見直されつつある。昔は水泳の強化訓練に重点が置かれたが、最近では浜で地引き網を引いて魚を捕ったり、岩場の潮溜まりで生物を観察したり、魚市場や朝市などを見学したりと、「泳ぐ」以外の学習活動が充実してきた。ネックとなっていた交通アクセスの問題は、東京湾アクアラインや富津館山道路の開通で解消されたし、事故防止の環境も整いつつある。今は往時ほどではないけれど、そのうち内房の臨海学校が復活する日が来るのではないか。そう感じられる今日この頃である。

岩井海岸
岩井海岸

[参考文献

夏目漱石『木屑録』(『漱石全集 第十八巻』岩波書店 平成7年 に収録)

『鋸南町史 通史編(改訂版)』平成7年

『富山町史 通史編』平成5年

『富浦町史』昭和63年

『館山市史』昭和46年

『平成14年観光入込調査概要』千葉県商工労働部観光コンベンション課

『朝日新聞』昭和23年6月10日付朝刊2面

同 昭和27年8月7日付夕刊4面

同 昭和44年7月3日付朝刊15面

同 昭和44年7月18日付朝刊18面

同 昭和45年6月17日付朝刊24面

同 昭和53年7月20日付朝刊20面]


2004年8月17日更新


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