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「ポップス少年」タイトル

リトル・R・オノ

第11回
  ノン・アメリカンなコーヒーの歌などを唄う女性歌手


 小学生の高学年ともなると、多少世の中のことにも関心が向くもので、特に1960年に起きた二つの事件はよく覚えている。一つは、社会党委員長の浅沼稲次郎が山口二矢(おとや)という17歳の右翼の少年に演壇上で刺殺された事件だ。テレビのニュースでその刺殺シーンを見た(記憶違いかもしれないが)。その事件もさることながら、山口二矢は後に少年鑑別所で自殺するのだが、その時にクラスメートのN村が「山口は若いのに自殺して立派だ」と私に語ったことが一番ショックだった。右翼の何たるかはもちろん分かっていなかったと思うが、自分の意志を貫いて人を殺め挙句自殺する行為に感心する小学生がいることにビックリしたのだ。N村は果たしてその後どんな道に進んだのだろう。
 もう一つは安保反対闘争だ。空からビラが撒かれ、校庭にヒラヒラと舞い降りてきたのをみんなで取り合った。そういえば昔は何かとビラが降ってきた記憶がある。テレビがまだそんなに普及されていなかったから“緊急ニュース”代わりに号外やビラが配られていたのだろう。我々も「アンポハンタイ アンポハンタイ(「アンパン賛成」と叫ぶ輩もいた)」と意味が分からないまま肩を組んでデモの真似事をやった。本物の全学連デモ隊は警官隊と衝突し、東大生の樺美智子が圧死するという悲劇が起きる。

羽田の「東京国際空港」にて

羽田の「東京国際空港」にて
小学5年の三学期に「東京国際空港」の羽田に行ったとき。昭和三十六年三月十二日「空港と飛行機の校外授業」とある。社会性を持たせる目的があったのだろうけど、ほとんど何も覚えてません。

 いずれにしても安保条約は延長され、抵抗むなしく敗れた後の無力感が漂っている60年代前半の空気にピタッと合ったのか、西田佐知子の歌う「アカシアの雨がやむとき」がヒットした。痩身の美人歌手が独特の歌いまわしとノンビブラートの甲高い声で「死んでしまいたい」とか「冷たくなった私を見つけて」と歌うのである。淡々と歌っているのに妙に情感に訴えかけてくる、まさに世相とマッチした曲だった。本人は「辛気臭い曲」で好きではなかったらしいが。
 当初はジャズ・シンガーとして紹介された(と思うが)西田佐知子を最初に知ったのは、「月影のキューバ」(キューバのサルサの女王セリア・クルスのカバー)か「日旺はいやよ」(メリナ・メルクーリ主演映画『日曜はダメよ』の主題歌のカバー)だったか、それとも「アカシア〜」だったか。最初のヒットは、「♪昔アラブのえらいお坊さんが」と始まる「コーヒー・ルンバ」だったはず。原曲はインスト(ウーゴ・ブランコ楽団)なのに、変な歌詞を乗っけた曲だった(「♪素敵な飲み物コーヒー・モカマタリ」の“モカマタリ”がよく分からず“〜の鎌足”と勝手に擬人化した)。その変さ加減が声質と歌いまわしに合っていて他の歌手にはない何ともいえない不思議な魅力を醸し出していた。
 他のポップシンガーと違い、最初からちょっと大人の感じがしていたから、これらのカバー曲は雰囲気としては合っていた気がする。後に演歌を歌うようになってからも「エリカの花散るとき」「赤坂の夜は更けて」「女の意地」「東京ブルース」「くれないホテル」などすべてイイし、高校時代受験中にラジオ番組の『P盤アワー』でよく流れた「涙のかわくまで」は毎週心待ちにしてトランジスタラジオに耳を集中させたものだった。菊正宗のテレビCM曲(「初めての街で」)もしみじみしていて良かったなあ。日本人歌手の中では今でも特別扱い。でもレコードを買うまではいかなかったけど。

『アカシアの雨がやむとき』

『アカシアの雨がやむとき』   西田佐智子
  デビューは早く56年だという。60年4月発売の4枚目にあたるこの曲の時はまだ“佐智子”名義。片面扱いだし、ナンだこの顔、ひどいぞ。本物? 全然“西田佐知子”になっていない。



『日旺はいやよ』

『日旺はいやよ』  西田佐知子



『コーヒー・ルンバ』

『コーヒー・ルンバ』   西田佐知子
  せこいぞポリドールレコード! 写真が同じだぞ。でも、この顔が私の知る最初の西田佐知子顔だ。



『エリカの花散るとき』

『エリカの花散るとき』   西田佐知子
 西田佐知子の“紅白” デビューは61年「コーヒー・ルンバ」。62年が「アカシアの雨がやむとき」。63年「エリカの花散るとき」。「アカシア〜」は発売当初にすぐ売れたわけではなく(あの写真じゃあね)、アンポ敗北学生の口伝えでじわじわ人気が出たとの話は本当のようだ。映画化は63年だし。



『アカシアの雨がやむとき』

『アカシアの雨がやむとき/西田佐知子ヒット曲集』   
  1961年5月発売のLP。このジャケ写の雰囲気こそが西田佐知子そのもの。
大人だよなー。



『コーヒー・ルンバ』

『コーヒー・ルンバ/西田佐知子ヒット曲集』   
  1962年1月発売のLP。この写真…スタイリングといい手のポーズといい、戦前か? 今回諸君征三朗さんがたくさん提供してくれたのでジャケは西田佐知子特集になってしまった。たまにはいいよね。



 主演のメリナ・メルクーリも歌っていた「日旺はいやよ」は、ギリシアだし(メルクーリは後にギリシアで政治家になった)、「コーヒー・ルンバ」はベネズエラ?だし、月影のキューバがあったりで、当時はアメリカ以外の曲も結構たくさん日本には入ってきていて、さらにオリジナルとカバーとが入れ乱れていた。
 他にもフランスからは、映画『太陽がいっぱい』でアラン・ドロンの相手役として人気を博したマリー・ラフォレが、次の作品『赤と青のブルース』では主題歌も歌った。マリンバ?をフィーチャーさせたジャズ・テイストの演奏に乗って、か細い声をマイクに近づけて歌うようなハスキーボイスで歌われるこの曲には、唯一分かる言葉「♪サントロペ〜」や「グシュグシュ」としか聴こえないフランス語独特の響きと相まって、シビレさせてくれた。こういった大人の感じの音楽にも反応できていたのにはいまさらだが驚く。
 さらにもっと大人の感じでは、60年の夏から秋にかけてずっとラジオでかかり続けた、アリダ・ケッリが歌うイタリア映画『刑事』の主題歌「死ぬほど愛して(アモーレ・ミーオ)」がある。女の情念など考えてみたことあるわけなかったが、アンニュイなこの歌とタイトルの感じから、雰囲気だけは理解できていたような気がする。
 ノン・アメリカン・ソングのなかでもその後のイタリア攻勢を予見させるような曲が、イタリアの歌姫ミーナの「月影のナポリ」だった。私としてはこの曲の “あつくるしい”感じがあまり好きではなかったが、ミーナが来日時(61年5月)に『ザ・ヒット・パレード』で歌った「幸せがいっぱい」というバラードは大好きだった。その歌った場面をよく覚えている。歌の良さはもちろん感じて聴き入っていたのだが、ミーナの衣裳がノースリーブのワンピースで、その肩ひもが歌っているうちにずり下がっていきその下のシュミーズの肩ひもが見えてしまい、ワンピースの肩ひもをたくし上げながら歌うのが気になっていたら、一緒に見ていた母が「あらあら、シミーズが見えちゃってはしたないったらありゃしない」と困った顔をしたことだ。今にしてみればなんてことはないのだが、当時はれっきとした下着だったから母の反応が正しいのだろう。
 強い印象を残した「幸せがいっぱい」はその後、ほとんど聴くこともなく、日本語カバーもあまり聞いたことがなかったからたいしてヒットしなかったのだろう。その点「月影のナポリ」はミーナのオリジナルも、森山加代子の日本語バージョンも大ヒットした。お下げ髪の“かよちゃん”は「♪ティンタレラ・ディ・ルナ お屋根のてっぺんで」とエキセントリックな感じで歌ったこのデビュー作で一躍トップ・アイドルになった。

     
『月影のナポリ』

『月影のナポリ』  森山加代子
 あごに手を当てるこのポーズ、当時の流行り? 「アカシアの〜」の西田もやっている。そういえば他でもよく見たポーズだ。


  「月影のナポリ」に続く森山加代子の第2弾「メロンの気持」は一転して大人の雰囲気のカバー曲で、「♪コラソン・デ・メロン・デ・メロン・メロン・メロン・メロン・メロン」というところはオリジナルと同じように歌われた。グロリア・ラッソや、ローズマリー・クルーニー(タイトルは「メロンの心」で演奏はペレス・プラード)が歌っていた。その次は西田佐知子やザ・ピーナッツも歌っていた「月影のキューバ」(「♪ねえプロント・プロント・プロント ねえお願いよ」という“胸キュン”な歌)、というように、出すシングルはいずれもカバー曲であるがローティーン向けのアメリカン・ポップスではなかった。
  そしてとどめは変な歌詞の付いたオリジナル?「じんじろげ」(渡舟人作詞・中村八大補作曲)だし、その後も「ズビズビズー」(女優ソフィア・ローレンのカバー)「パイのパイのパイ」(元曲は大正時代の「パイノパイ節」)と、カバーもオリジナルも語呂合わせ的な詞や繰り返し言葉を使う曲が多かった。森山加代子の制作スタッフはまるで「ダ・ドゥ・ロン・ロン」や「ドゥ・ワ・ディディ・ディディ」「ハンキー・パンキー」「シュガー・シュガー」を作ったジェフ・バリー&エリー・グリニッチのコンビを先取りしているかのようだ。
『森山加代子 ヒット・パレード』

『森山加代子 ヒット・パレード』
 これはナイスなジャケですね。60年12月発売の3枚目のアルバム。「メロンの気持」「パパはママが好き」「恋の汽車ポッポ」「月影のキューバ」「パイナップル・プリンセス」など8曲入り。

 その点、森山加代子に2ヶ月遅れてデビューした中学生の田代みどりは正統派ティーンエイジ・シンガーと言っていいかもしれない。デビュー盤がAB面とも、当時のアメリカのティーンエイジ・アイドル、ブレンダ・リー「スイート・ナッシンズ/泣くのはおよし」だし、2作目がブライアン・ハイランド「ビキニスタイルのお嬢さん/ベビー・フェイス」だし、3作目がアネットの「パイナップル・プリンセス」と、狙いが分かりやすかった。
 ミーナは来日以降徐々に忘れられたが、イタリア自体はジリオラ・チンクエッティやボビー・ソロがサンレモ音楽祭に出場したあたりから盛り上がっていき、日本人歌手もサンレモ音楽祭にエントリーし入賞を目指すようになる。忘れられたミーナは65年、突然(のように感じた)「砂に消えた涙」や「別離」をいずれも日本語で歌って大ヒットさせる。歌唱力のあるミーナの名曲を聴くと、「幸せがいっぱい」の時に日本語で歌わせていれば多分大ヒットしたんじゃないかと思ったりもする。

※印 画像提供…諸君征三郎さん


2008年7月9日更新
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