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「ぶらり歌碑巡り」タイトル

アカデミア青木

http://www.maboroshi-ch.com/hoso/item-43.html
ラジオ版・ああ我が心の童謡〜唱歌編
http://www.maboroshi-ch.com/hoso/item-50.html
ラジオ版・ああ我が心の童謡〜童謡編
まぼろし放送にてアカデミア青木氏を迎えて放送中!

碑

第41回 『兎のダンス』

 日溜まりの公園で、暮れなずむ街角で、夜のしじまの中で、ひとり「童謡」を口ずさむ時、幼き日々が鮮やかによみがえる…。この番組では、皆様にとって懐かしい童謡の歌碑を巡ってまいります。今回は、『兎のダンス』です。
 「そそら、そらそら、兎のダンス…」。幼稚園のお遊戯の時間に、この歌に合わせてダンスをされませんでしたか?小生はこのメロディーを耳にする度に、白い靴下を履いて、幼稚園の木の床の上を、音楽に合わせてピョンピョン跳ねていたことを思い出します。条件反射といいますか、幼い頃に体で覚えたことはなかなか忘れないようです。この『兎のダンス』は、野口雨情が作詞し、中山晋平が作曲をしています。



『兎のダンス』(『コドモノクニ』大正13年5月号 に発表。歌詞は『定本野口雨情 第三巻』未来社 昭和61年 収録のもの)
 作詞 野口雨情(のぐちうじょう、1882−1945)
 作曲 中山晋平(なかやましんぺい、1887−1952)

 

碑

 

 ソソラ ソラ ソラ兎のダンス
 タラッタ ラッタ ラッタ
 ラッタ ラッタ ラッタ ラ

 脚で蹴り蹴り
 ピヨツコ ピヨツコ 踊る
 耳に鉢巻 ラッタ ラッタ ラッタ ラ

ソソラ ソラ ソラ可愛いダンス
タラッタ ラッタ ラッタ
 ラッタ ラッタ ラッタ ラ

 とんで跳ね跳ね
 ピヨツコ ピヨツコ 踊る
 脚に赤靴 ラッタ ラッタ ラッタ ラ

 

『兎のダンス』 この歌には、「ソソラ ソラ ソラ」というリズミカルな出だし、「蹴り蹴り」、「跳ね跳ね」といった動作の繰り返し、「ピヨツコ ピヨツコ」という擬態語、「タラッタ ラッタ ラッタ」といったのスキップの擬音語がふんだんに散りばめられ、歌詞を音読するだけで楽しい気分になります。当時、童謡に振り付けをして踊る「童謡踊(どうようおどり)」というものが盛んにつくられましたが、『兎のダンス』もその中の一つだったのでしょう。
 「童謡踊」については、『日本家庭大百科事彙』(冨山房 昭和5年)の中に、次のような記述があります。
 「ドウヨウオドリ・童謡踊 新しい現代の童謡に作曲したリズムに基づいた振付けをして、これを主に舞台で実演するもの。律動遊戯などとも呼ばれる。童謡そのものが今日の如く一般的に普及されるについてもこの舞台の上の遊戯が大いに與つてゐる。形式からいふと昔からあつた小学校・幼稚園などでの平易な唱歌に合せてのいはゆる遊戯、また童話的な話材に基づく『兎と亀』・『桃太郎』・『浦島』式の唱歌を動作に現す稍進んだ遊戯などと大差はないが、童謡踊の方は作曲の上にも振付の上にももつと芸術らしさをもたせようとする。昔からの遊戯も広い意味では童謡踊といはれもしようが、狭い意味での新しい形式のものは殊に舞台に上すといふことが可なり強い動機になつてゐて、本来の舞踊の技巧と精神とに接近させようといふ努力がうかがはれる。振付も和楽伴奏によるものと洋楽伴奏によるものとの二つの方向に分けられもするが、今から六−七年前位から盛んに世間でさわがれ出したもので、子供向きの雑誌類には新しい振付を載せるのが一つの流行にまでになつてゐる。これら振付の方面で研究苦心してゐる主な人々に、土川五郎・藤間静枝(*1)・印牧季雄(*2)・林きむ子(*3)等がある」(一部の旧漢字は現代のものに直してあります)
 大正から昭和初めにかけての童謡ブームを語る際、児童雑誌やレコード会社が普及に貢献したことはよく取り上げられますが、童謡踊についてはあまり触れられません。しかし、当時の幼稚園の教育プログラムに童謡踊が取り入れられ、子供達が体で童謡を覚えていったことを考えれば、童謡踊が果たした役割は決して小さくはなかったのです。ちなみに、童謡踊はその後「児童舞踊」へと発展し、今日に至っています。
 さて、こちらの歌碑ですが、お馴染みになりました茨城県北茨木市の常磐自動車道・中郷サービスエリア[上り線]内の庭園の中に建てられています。碑のそばには兎の像もありますので、碑を見に行かれる際にはこちらにもご注目下さい。

*1藤間静枝(藤蔭静枝 ふじかげしずえ と同一人物)。明治13年、新潟生まれ。本名、内田八重。日本舞踊家。明治42年、藤間勘右衛門に入門。43年に名を許されて藤間静枝となり、舞踊を教える傍ら、「八重次」の名で新橋の余興芸者となる。大正初期、永井荷風と短期間結婚。大正8年、芸者を廃業し、新舞踊運動に傾倒。12年には新舞踊の流派「藤蔭流」を創流。昭和6年、家元からの抗議により、藤蔭静枝を名乗る。童謡踊の振付としては『十五夜お月さん』、『青い眼の人形』等が有名。昭和41年、死去。享年85。

*2印牧季雄 かねまきすえお。明治32年、金沢市出身。舞踊家。大正6年より舞踊の修行を始め、8年には印牧バロー研究所を創立。昭和6年、ソビエトに渡り、ドイツを経て帰国。童謡舞踊、学校舞踊の理論的な裏付けをして、その分野でのパイオニアとなる。後進の育成にも努め、戦後児童舞踊家連盟を結成し、初代会長となった。昭和58年に死去。

*3林きむ子 はやしきむこ。明治19年、東京生まれ。日本舞踊家。初代西川喜洲、九代西川扇蔵に師事。明治37年に代議士日向輝武、大正8年に詩人林柳波と結婚。童謡運動に共鳴して、児童舞踊と文学的創作舞踊を目指して、13年に「林流」を創立。昭和42年、死去。享年80。

[参考文献

『定本野口雨情 第三巻』未来社 昭和61年

『日本家庭大百科事彙』冨山房 昭和5年の「童謡踊」の項

日本児童文学学会編『児童文学事典』東京書籍 昭和63年

倉田喜弘・藤波隆之編『日本芸能人名事典』三省堂 平成7年

森まゆみ『大正美人伝 林きむ子の生涯』文芸春秋 平成12年

場所:茨城県北茨城市常磐自動車道・中郷サービスエリア[上り線]内
交通:JR常磐線南中郷駅よりタクシー8分。


2006年1月20日更新
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[ああ我が心の童謡〜ぶらり歌碑巡り]
第40回 『青い眼の人形』
第39回 『シヤボン玉』
第38回 『雨降りお月さん』
第37回 『かごめかごめ』
第36回 『蜀黍畑』
第35回 『あの町この町』
第34回 『黄金虫』
第33回 『四丁目の犬』
第32回 『七つの子』
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第27回 『案山子』
第26回 『仲よし小道』
第25回 『七里ヶ浜の哀歌』
第24回 『城ヶ島の雨』
第23回 『どんぐりころころ』
第22回 『十五夜お月さん』
第21回 『浜辺の歌』
第20回 『叱られて』
第19回 『故郷』
第18回 『砂山』
第17回 『兎と亀』
第16回 『みどりのそよ風』
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第14回 『早春賦』
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第5回 『赤い鳥小鳥』
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第3回 『荒城の月』
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[ああわが心の東京修学旅行]
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