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串間努

第7回「「家庭盤」ってあったよね」の巻

ファミリーゲーム15

ファミリーゲーム15 (以下、カラー写真はすべて現在のもの)


 今の子どもたちが、放課後に友達の家に上がり込んでテレビゲームに熱狂するように、ボクらが小学生時代も、「ゲーム盤」をやるために友達の家に集まったものだった。なにしろ団塊の世代に比べれば「少子化」が始まっていたので、一人っ子にとってはゲームのメンツが足らないのだ。

ニューダイヤモンド やるゲームがエポック社の野球盤やボウリングゲームだったり、タカラの人生ゲームだったりと、流行り廃りはあったけれど、いつも根強い人気を持っていたのが、じつは「家庭盤」である。これははなやまという会社が出していたもので、ダイヤモンドゲームやコピットさんゲームなどが1つの盤面の裏表に印刷されているお得なゲームだった。当時はダリヤ(9ゲーム)、カーネーション(8ゲーム)、チューリップ(7ゲーム)などと花の名前のシリーズ名だった。当然ゲームの数が多いほど値段が高くなり、箱も紙から木のアタッシュケースにグレードアップし、チェスやルーレットがついているのが憧れだった。「家庭盤」とは言っても、昭和40年代終盤には家庭の中だけでゲームができる程兄弟姉妹もいないので「他人盤」だったのがおかしい。

財産ゲームバンカース 要するに家庭盤とは、多くのゲームが1つにまとまったお得用品ということが言えるが、この点からみると、ルーツに近いものはアメリカに求められる。あの「人生ゲーム」を発売したミルトン・ブラットリー氏が一八六〇年に開発した「人生チェッカー」というのがそれだ。このゲームはチェス、チェッカー、バッグギャモン、5種のドミノと一緒に、ブラットリーが考案した兵士のためのゲームが袋に入っていた。一種の慰問袋だったのだろう。
 家庭盤に入っている主なゲームとしては、コピットさんゲーム、ルード、ダイヤモンドゲーム、サーカスが4大ゲームと言ったところで、あとは、はなやまのオリジナルの名探偵ゲームとか宇宙旅行ゲーム、野球ゲーム(ホームイン)などが入っていた。

玩具画報 VOL,263. 1968 1/1号 より

 コピットゲームは、4名が赤、青、黄、緑の三角帽をもち、サイコロの目の数だけ進み、相手のいるコマ目に止まるとコマをかぶせて奪い取るゲームで、もとはドイツのパチーシというゲームからきている。このころは4種の駒は円筒だった。それをどこかで三角帽子にして、三角帽子といえば「コビトさん」が被っているというイメージから「コピットゲーム」となったのであろう。戦前からあったことが文献からも確認されている。折角あともうすこしというところに来ながら、相手に「1・2・3・4カチャッ」と被せられてしまう時はものすごく悔しかった。

実用新案出願公告第三三三三号

実用新案出願公告第三三三三号 ルードは、やはり4種のタブレット型駒を自分の陣地に向かって進ませていく双六であるが、これは「ルドー」という名前で一八九六年頃に西欧に伝わっている。
 ダイヤモンドゲームの出自はハッキリしない(私の友人の遠い親戚が発明したとか、輸入したという噂ならあるけど)。日本では昭和2年頃、「ぴょんぴょんぴょん」の名で商品化され(このメーカー名は「ぴょんぴょん堂」説あり。なんじゃそりゃ)大人気を博したという。盤は紙製でコマは木製。戦時中は敵性語禁止のため「ダイヤモンドゲーム」から「進軍ゲーム」と名前を替え、慰問袋の中に入れられていた。戦地の兵隊さんもダイヤモンドゲームをしていたとは面白い。

 サーカスゲームは昭和35年頃にはあったようで、ヨーロッパでは「スネーク&ラダー(ヘビと梯子)」というゲーム。これをはなやまがアレンジしたようだ。双六の一種だが、ハシゴのところに止まるとたちまち昇ったり、落下するのが面白かった。
 家庭盤の亜流はあちこちで作っていたようで、今をときめく元はかるた商の任天堂も昭和42年頃は「ダイヤ、ロケット、小人」などのゲームを6点入れて600円で売っていたという記録がある。家庭盤は普通名詞なので商標登録ができないのだ。

●家庭盤……社長ショートインタビュー

──いつごろから家庭盤はあるのですか。

 「古いことなのでよくわかりませんが、昭和8年にはなやまゲーム研究所が創立され、昭和10年代にラッキーパズルを出し、昭和14年頃に家庭盤を発売したようです。『ファミリーゲーム』を訳したんじゃないかな。中にはダイヤモンドゲーム、コピットゲーム、ルード、名探偵があったと聞いています。7つのゲームから始まって、いまは12ゲームになっています。家庭盤は商標登録出来ないので、タンポポ・チューリップ・バラなどの花の名前をつけていました」

──「コピットゲーム」はやはり「コビト」からつけたのでしょうか。

 「うーん。キューピットとか、カピットとか言ってるのもあったし、単に帽子とりゲームと称しているところもありましたねえ」

──盛んだったのはやはり高度成長時代でしょうか。

 「はなやまで盛んな頃は昭和30年ころかな。昭和43年ころからビル建設の資金繰りが悪化して、昭和47年に一時倒産したんですよ。僕は昭和28年にこの会社に入社してタクシーゲームを開発したりしました。あと、海賊ゲームとか007ゲームも作りました。昆虫採集ゲームというのもあったな。タクシーゲームがヒットしたので当時の社長から販売権を譲り受け、一から覚えて昭和36年からは印刷の下請けとして関っていたんです。それでお得意さんと債権者におされて社長になったんです。昭和30年代に日本でモノポリーを生産したのもウチです。大同貿易の社長がワーナーブラザースから持ち込んできたものをね」

──モノポリーを日本的にアレンジしたのが御社の「バンカース」ですよね。

ポータブル バンカースゲーム
ポータブル バンカースゲーム

 「あれは昭和29年に発明されて、毎年10万セット売れましたね。昭和38年から発展させてニューバンカースにしました。昭和30年代ていったらルーレットの全盛期でもありました。モナコ、ニューヨーク、ラスベガス、なんて名前をつけましてね」

──今、家庭盤はまだ出ていますか。

スヌーピー ニュー家庭盤デラックス
スヌーピー ニュー家庭盤デラックス

 「ありますよ。でもキャラクターがないし、安いことから業者が売りたがらないんですよね。今は複数の人間でやるゲームは売れません」

●「GON」を改稿


2003年4月30日更新
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