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アカデミア青木

ひな祭りの金花糖の鯛
ひな祭りの金花糖の鯛

第27回 砂糖の甘くないお話


 昭和40年代初めの事だったろうか。父が職場の結婚式に呼ばれると、よく砂糖でできた鯛をもらってきた。本物サイズの真っ赤な鯛で、ひな祭りの金花糖の鯛が小鮒に見えてしまう程だった。また、お中元やお歳暮に箱入りの砂糖が来たこともあった。最近ではとんとお目に掛からないが、当時は「慶び事」には砂糖がつきものだった。今回の昭和のライフでは、その背景にあった戦後の砂糖事情について取り上げてみたい。

1.砂糖の伝来と国産化への取り組み

 砂糖は化学上は「ショ糖」と呼ばれ、様々な植物に存在している。サトウキビ(甘蔗。カンショ)から作られる甘ショ糖、テンサイ(甜菜。サトウダイコン)から作られるテンサイ糖、サトウカエデから作られる「カエデ糖」等々。そのうち工業的には前2つが生産量が多く、他を圧倒している。サトウキビはインド原産で、アレキサンダー大王の大遠征をきっかけにヨーロッパに知られるようになり、東南アジア方面には6、7世紀頃に栽培技術が伝えられたという。テンサイは17世紀の半ばにドイツの化学者によって砂糖の含有が発見され、長年の品種改良の結果含糖率が向上し、1890年頃にはサトウキビと並ぶ製糖原料となった。

サトウキビ
サトウキビ

テンサイ
テンサイ

 日本に砂糖が初めて伝わったのは奈良時代から平安時代初頭にかけてで、一説には鑑真がもたらしたといわれているが、失敗した第一回の渡航の積荷目録には砂糖の記載があるものの、成功した第6回の渡航の積荷目録には記載がないという。平安時代初めの延暦24年(825)に唐から帰国した最澄が砂糖を朝廷に献上した記録が残っているので、遅くてもこの頃までには我が国にもたらされたのだろう。当時の砂糖は「舶来の高級品」として一部の上流階級の間では珍重されたが、一般的な甘味料としては米から作った飴や、蜂蜜、アマズラ(甘葛)の汁などが広く使われた。16世紀初頭になると南蛮貿易を通じて砂糖がもたらされるようになり、16世紀末には一般でも消費できる位に輸入量が増加した。
 鎖国が成立すると砂糖は長崎経由で輸入されるようになり、中国やオランダの商人は、中国南部や東南アジアで仕入れた砂糖を時には10倍の高値で売り、巨利を得ていた。砂糖(甘ショ糖)の製法は中国の福建省から、慶長14年(1610)に奄美大島へ、元和9年(1623)に琉球(沖縄)へと伝えられたが、鎖国後は砂糖を自給自足するために内地でもサトウキビ栽培が試みられた。8代将軍吉宗は江戸城内でサトウキビを試作し、中国の製糖関係の文献を収集したり、長崎の中国商人から製糖法を学ばせるなどして、吹上庭園の園吏に砂糖を作らせたという。また、川崎の大師河原の名主・池上太郎左衛門幸豊は製糖法を学び、明和3年(1766)頃黒砂糖の、安永年間(1772−81)に白砂糖の、寛政8年(1796)には氷砂糖の製造に成功、全国を回って先進地では「秘法」とされていた製糖法を各地に伝授した。彼は製糖法を伝える見返りに、現地でできた砂糖の一手販売権を得ようと考えたが、このビジネスモデルは昭和のライフ第24回で紹介した海苔商・近江屋甚兵衛らに通じる方法である。幸豊は幕府から土地の払い下げや資金の貸付を受けて国産糖の販売や輸入糖の取引を行い、その代わりに運上金を幕府へ納める「砂糖座」を構想したが、残念ながらその認可は得られなかった。一方、諸藩も利益率の大きい砂糖に注目し、おのおの生産に力を入れた結果、幕末には讃岐、阿波、土佐、和泉、駿河、遠江などの大産地が出現した。各藩は砂糖を専売品にし、一括して買い上げた上、大阪へ送った。大阪には薬種問屋があって、これが砂糖問屋を兼ねていたが、砂糖はここから全国の消費地へと出荷されていった。江戸末期の砂糖消費量は約3万トン、1人当たりに直すと年間1Kgで、砂糖はまだまだ貴重品だった。主な用途は菓子だったが、京都では砂糖を扱う菓子屋が株仲間(砂糖仲間)を作り、高級な白砂糖や氷砂糖を使う上菓子屋(朝廷や幕府などへの献上菓子を扱う店)に対しては「砂糖冥加金」なるものが課されたという。鎖国、各藩の砂糖専売、砂糖仲間による買い付けなどの結果、砂糖の価格はかなり割高なものとなったが、幕末には生産拡大によって国産糖は長崎の輸入糖に取って代わることができた。だが、それはほんの一時のことだった。

2.近代と砂糖

 開国によって砂糖貿易が欧米列強に開放されると、安価で品質の優れた砂糖が国内に大量に流入し、国産糖は大打撃を受けた。奄美、沖縄の黒砂糖は生き残ったものの、旧来の内地の製糖業は1900年ごろまでにはあらかた潰滅してしまった。

精製糖発祥之地碑
精製糖発祥之地碑

当時の工場
当時の工場

 明治に入ると、国内業者の中に高品質の白砂糖(精製糖)を国産化して、外国糖に対抗しようとする動きが起こった。明治23年、東京の砂村新田(現、江東区北砂5丁目)の鈴木藤三郎は精製糖の製造に成功、25年から本格的な生産を開始した。(現在その工場跡には「我国精製糖発祥之地碑」が建てられている)日清戦争後に台湾が日本領になると、33年に国策会社の台湾製糖が設立され、鈴木は製糖業の最高権威として社長に据えられた。台湾はサトウキビの栽培に適していることから、ここで粗糖(原料糖)を取り出し、内地に運んで白砂糖に精製しようとしたのだ。日露戦争後には、財閥や資本家が相次いで台湾に粗糖工場、内地に近代的な精製糖工場を建設した。その結果、43年の砂糖生産は33万9千トンに達し、最早砂糖は貴重品ではなくなった。砂糖が一般家庭の調味料として使われるようになったのは、都会では1890年代(明治23〜32年)、農村では1910年代(明治43年〜大正8年)からといわれている。
 ところで、もう一方の製糖原料であるテンサイが日本に導入されたのは明治に入ってからで、種子が明治3年に初めて輸入され、9年に岩手産のテンサイからショ糖が分離されている。11年にパリ万博を視察した松方正義は、ヨーロッパで甜菜糖業が盛んなのを知って、日本へ導入しようとした。そこで甜菜糖製造工場が紋別村(13年)と札幌(19年)に建設されたが、取引銀行の破綻、凶作、経営の失敗などで、いずれも27〜28年頃に生産を中止した。その後、様々な取り組みを経て、昭和初期になって甜菜糖業は北海道に定着。昭和12年にはテンサイ糖の生産は4万トンを超え、戦前のピークを迎えた。

3.砂糖の戦後

 第二次世界大戦の末期、日本が制海権を失うと台湾からの粗糖の移入はストップし、砂糖の配給は昭和19年に打ち切られた。北海道のテンサイ糖が乳幼児用として配られたが、砂糖の1人当たりの年間消費量は19年に2.93Kg、終戦の翌20年には0.64Kgまで落ち込んだ。これは幕末の水準以下である。そしてその状況はしばらく続いた。甘味に飢えた人々は、昭和のライフの第7回で紹介した「芋飴」や、ズルチンやサッカリンなどの人工甘味料などに飛びつき、関連業者は巨利を手にした。22年12月から23年にかけて主食代わりにキューバ産の粗糖が大量に配給されたことがあったが、表1にもあるように、1世帯当たりの砂糖の年間購入量は23年に41.85Kgと急増している。

これは空前絶後の量だが、当時女学生だった老母にその時の感想を求めると、「キューバ糖の配給が始まった頃は甘い物が食べられると喜んでいたが、くる日もくる日も食卓にカルメ焼きがのぼり、しまいには飽きてしまった」との事。23年末からは「主食の代替品」として砂糖が配給されることはなくなった。

 表2は戦後のサトウキビの収穫状況を、表3はテンサイの収穫状況をしめしているが、昭和25年におけるサトウキビの収穫量は全国で10万トン。台湾を失い、沖縄、奄美が米国の軍政下にあったため、生産量全国1位は高知県(約1万9千トン)、以下香川、鹿児島、徳島など幕末に砂糖産地だった県が顔をのぞかせている。一方、同年のテンサイ収穫量は2万7千トン。そのほとんどは北海道産だが、茨城、愛知、島根各県の名も見える。製糖原料を得るために、各地でサトウキビやテンサイの栽培が盛んに試みられていたことがわかる。海外からの粗糖の輸入も徐々に増えていったこともあって、砂糖の統制は昭和27年4月に解除され、自由販売となった。この年、砂糖業界は好況に恵まれ、セメント、製紙と並んで「三白景気」の一角を占めることとなった。
 砂糖の1世帯当たりの消費量は昭和28年以降徐々に低下していったが、白砂糖の消費量はその後も増え続けた。この間、海外からの粗糖の輸入は各精製糖メーカーの生産能力に応じた外貨割当制がとられていたが、輸入量は不足気味で、白砂糖の小売価格は高めに推移していた。お中元やお歳暮の贈答品などに白砂糖が使われていたのもこの頃だ。ところが「貿易自由化」の流れから38年8月に粗糖の輸入が自由化されると、各社は設備投資に走って過当競争を引き起こし、白砂糖の小売価格は38年の16.19円から40年には12.50円へと下落した。粗糖の国際相場の乱高下はメーカーの経営を更に圧迫し、安価な粗糖の流入は国内のサトウキビ、テンサイ農家の困窮を招くことから、40年に「糖価安定法」が成立し、糖価安定事業団を通じて輸入粗糖の価格を調整したり、国内農家に交付金を支給する仕組みができ上がった。
 43年にはいわゆる「チクロ騒動」(串間努氏の『まぼろし食料品店 第4回「チクロは旨かった」の巻』に詳しい)が起こり、食品工業では砂糖やブドウ糖などの採用が進んだが、それが砂糖の小売価格に影響を及ぼしたり、一般家庭の砂糖消費を増加させた形跡は見られない。白砂糖の年間消費量は41年をピークに減少へと転じたが、これは清涼飲料や菓子といった形で間接的に糖分を摂取する機会が増えたことや外食が普及し始めたことによると思われる。47年には精製糖の輸入も自由化されたが、翌48年秋に第1次オイルショックが勃発して、トイレットペーパーや砂糖の買いだめ騒ぎが発生、これをきっかけに砂糖の小売価格は急騰した。48年と49年の年間消費量の微増はその時の「買いだめ」を反映したものかもしれない。家庭での砂糖消費量の減少傾向は50年以降も続き、平成15年現在、年間7.88Kgと昭和28年の4割の水準にまで落ち込んでいる。当局は平成元年に砂糖消費税を、12年4月には粗糖関税を撤廃して、砂糖価格を低下させ、消費増につなげようと努力しているが、今のところ目立った成果は上がっていない。むしろ、近年飲料業界では「無糖」飲料や「緑茶」が人気を博しており、日本人の甘い物離れは加速しそうな勢い。なかなかうまくはいかないようである。

ダイエット甘味料として注目されるステビア
ダイエット甘味料として注目されるステビア


2005年9月9日更新


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