グルメの最近のブログ記事

(前回の続き)

●本町へ
街道の大通りを渡ろうとしたら、車が止まってくれた。あちこちで目にするが旧青梅街道を走る地元の車はとても親切だ。結構、結構。これもユルイ。

のこぎり屋 だんご屋
まず見えたのが、のこぎり屋さん。包丁とハサミも研ぎます。いまどきハサミを研いで使うヒトがいるのかね。その先だんご屋はのり巻きや稲荷寿司、赤飯、たこ焼きも売っていてとても安い。ぼくも博物館を作っているときはよく利用した店だ。だんご屋の向かいの薬局は2階が素敵。となりの蔵造りの家のとなりは「しもた屋」。よく小説でしもた屋というのが出てくるが、これは商店街にあって商売をしていない家、かつてはしていたけど辞めた家のこと。
しもた屋
向かい側には昔懐かしい赤くて丸いポストがあり、2階が古いままの文具店のユルさもすばらしい。あの2階の中にはなにがあるのだろう。
かばん屋文具屋の向かいのかばん屋は宝くじも売っていて、何億円もあたりが出た店である。地元でどんどん当たると大評判。何しろこの辺には第一勧業銀行がないのだ。ってゆうか都市銀行自体がないんですけど。信用金庫が営業しやすい街。文具屋の反対、福屋さんの隣には明治20年開業の井上陶器店。店頭には昔ながらの「甕(カメ)」が売っている。半胴ガメ、寸胴ガメ、いろんな大きさがあって2000円~だ。青梅は梅干しを漬ける人が多いのだ。ぬか漬けの床や。米びつ代わりにもなる。おかゆを作る陶器の『行平』もある(1500円~)。レトロな花柄図案の茶わんは430円~。「これちょうだい」というと非常に感じのいい3代目のおばさんが、と石で糸尻を擦ってくれる。茶わんの糸尻を知らないひとはお母さんに聞いてくれ。これもつい忘れていたサービスで懐かしい。っていうか茶わんを陶器店で買わなくなって久しいからなあ。スーパーではこんなサービスはしてくれない。

雑貨店陶器店の反対側は雑貨店だ。化粧品、洗剤、ビニール製品、ブラシ、輸入モノの竹や籐細工の安価なものを商っている。地元のひとに受けているという。また反対に渡ると、電気屋さん。店頭にはニクロム線の電熱器『坂口こんろA型』が2400円で展示してある。「絵描きさんがにかわを溶かしたりするのに便利なんだよ」と同行の地元者が語る。なるほどそんな使いかたがあったか。同じワゴンにはなぜか「男闘呼組」や「WINK」のカセットが2本で500円。流行遅れだから安い。
洋品店その反対が洋品店。どうして、道路をあっちこっち反対に渡るかというと、道路を隔てた反対側の店の看板や店頭が目に入って、「あ、あれはなんだ」とフラフラするからだ。
洋品店には「0才から24cmまでのびる靴下」というのが売っている。範囲を現す単位が途中で変わる表記が新鮮だ。オトナから子どもまでOKのポケットソックスらしい。即ゲット。マネキンも一段とレトロでウレシイ。洋品店の隣の玩具やさんは、昔のプラモデルが定価のままで売っているというから、お宝探しをしたい人は立ち寄ってみよう。だいぶ掘り起こされているけどね。

玩具や
反対側が薬局。懐かしい薬の看板がどっさりこ。レトロファンなら誰でも知っている『ヨージ水』(皮膚病)、『スマイル』(目薬)、『妙布』(肩こり)、『大木五臓円』(滋養強壮)などなど。『君が代』というのは白髪染めらしいが、昔は赤毛が「恥」だという意識があったので、赤毛染めでもある。今ではわざと赤や金に染めるのが流行っているのにねえ。

ガチャガチャこの薬局、売っている現行商品もレトロ。『スモカ歯磨き』『あせしらず』(昔のベビーパウダー)『君が代』『水銀軟膏』(毛じらみ退治)『ホシ胃腸薬』(胃腸薬の赤缶。SF作家星新一の父が創業した星製薬製)が置いてある。

反対に渡ると明治時代から続く呉服店。取材当時は店頭ワゴンで子ども肌着がどれでも10円だったりボタンダウンシャツが100円だったりと大安売り。10円なら買いたいけど結婚もしていないから買っても意味がないのでやめる。なぜか店内には『主人公』と書いた貼り紙がある。『年男』と書いたマスがある。『ま心』と書いた額がある。店主の話では「お寺さんにもらった」そうだ。ベビーギフトコーナーやフィッティングルームのたたずまいがこれまたモダンレトロで格好イイ。

服飾雑貨の店
呉服店の反対にこどもやといいいながら、子どものものはあんまり売っていない店がある。帽子とか服飾雑貨の店だ。貼り紙が面白い。「ベレー帽子・バイザー」というのがある。「テラピンチ・ラコステ」というのがある。テラピンチとは帽子の型のことをいうそうだ。婦人帽子帽子関係では「クロッシェ・キャペリン・セーラ」というのもあり、教養がないとどうも貼り紙も面白がれない......。奥さんがPOP(貼り紙)を書いているそうだ。その他にも「チョッキ」(死語)「下バキ」(死語)「ブロードパンツ」なんてのもある。もうあまりにも分からないのでどんどん奥さんに質問する。「サロン」とは前掛けのことで、「スモック」とはゴムがついている上ッパリのことだって。「和装かっぽう着」と「洋装かっぽう着」の違いは袖の幅が違うということで、なかなか勉強になる。勉強になるがこの知識をどこで生かせるのかは皆目見当がつかない。おそらくこの豆知識は墓場まで持っていくことだろう。男性に懐かしいモノももちろん売っている。野球帽(2000~)だ。昔の事務員がしていたような「腕カバー」もある。しかも濃紺色とかではなくて、パステルカラーでカラフルである。おしゃれなOLにプレゼントしたら喜ばれそうだが、洒落がわからない娘にはぶっとばされそう。このお店のとなりは「かみや」という『軽い靴』がメインの店。靴が重くて困っている人にはうってつけかも。
陶器屋
かみやの隣は陶器屋さん。この商店街、ものすごく陶器店が多い。昭和40年代に仕入れたものが結構あるという店で、砂糖ツボや花柄のコップがステキだ。昔、お父さんが枕もとに置いていた「水さし」まで売っている。お客さんが泊まったときとか、こいつを用意すると昭和40年代ぽくてでイイゾ! 隣は傘屋さん。昔は番傘を作っていた。いまも番傘(青梅傘など)を売っている。9000円~。洋傘などもステキなデザインが多いから、人と違った傘を探しているおしゃれさんには魅力的。人ごみでのエチケットである「かさ袋」も売っている。これははじめて見ました。

 その他、袋物も売っているが、バッグとかリュックサックとかが異様に安い。本当? と思うほど安い。デフレだデフレだ。お相手してくれた奥さんは、この家の2階があまりにも広いので、自転車乗りの練習をしたひとだ。

店 店
店 店
傘屋さんを先にいくと、住江町だ。レコード屋さん、マイナー堂は先代が、ギターで使うAマイナーとかGマイナーとかから取った名前。現店主は青梅マラソンが行われるとき、必ず演歌の『帰ってこいよ』を流すという。その数軒さきが昭和レトロ博物館。ちょうど疲れてきたので、併設されている「となりのレトロ」という喫茶店で紅茶でも飲もう。
昭和レトロ博物館

(続く)

   

博物館の看板青梅の商店街。江戸時代に奥多摩の石灰を江戸城に運ぶために出来た青梅街道に面する商店たちは、戦前に建築された古いたたずまいのまま21世紀も商いを続けている。

この街は非常に『ユルイ』街である。青梅駅の前は都会の喧騒とは無縁だ。牛丼やビデオ屋の赤や黄色のチェーン店の看板が目立つこともない、茶色い、煮しめのようなカラーリングの街。時間はゆっくりと流れていて千代田区が17時なのにまだ青梅では15時だ(ウソ)。おおらかな店主が多いせいかお店に入っても「商売人にモノを買わされた、してやられた~」ということがない。

人がおおらかで、街全体の雰囲気が『癒し系』のまったりとした空気に包まれているのは歴史の必然か。江戸時代、『青梅宿』と呼ばれ、宿場町としても栄えた青梅は、戦前は繊維産業で栄えた街で、機織り機械が1回、ガチャンと動くと1万円を産み出したということから「ガチャマン」という言葉が残っている。1ガチャ1万円。そんな単位ははじめて聞いたが、昔の栄光いまいずこ。古くからこの地元で商売をしている人が多いのでコセコセしていないのだ。

商店街の建物たちは時間が完璧に止まっているものばかり。戦前から続く店がほとんどで、金看板を挙げたお店(たな)まであるぞ。「ショップマスター」なんてどこを探してもいないし似合わない。そんな大人(たいじん)の風格のある商店街の町並みに、お宝拝見とばかりに探検取材に出てみたぞ。いったい何が見つかるだろうか。さあ、レッツゴー!


●路地を通って、駅前とその裏へ

ラーメン屋のショーウインドウ チキンライス

元ビリヤード場

レトロ商品博物館の前を通る大通りが旧青梅街道。ここをスタスタと渡り、持ち帰り寿司屋の路地を入る。一方通行の永山公園通りだ。このあたりは写真館と美容室とすし屋がやたらと多い。ラーメン屋にもにぎり寿司がメニューにあるほどだ。角にあるすし屋さんを左折。そば屋さんを過ぎ、うなぎ屋さんを過ぎと、観光老夫婦が喜びそうな和食中心の道を進むと、またまたうなぎと天ぷらの店の前に出た。この店の前には木造トタン屋根の元ビリヤード場があり、赤と白のシールが水玉のように窓ガラスに張ってある。だけど残念ながらもう営業していない。せつないね。

豆腐店この奥その路地を通り右折すると突き当たりにお豆腐屋さんがある。地元ではよく売れる店として評判の店だ。
そこから路地を通ると仲通りに出る。『仲通りで仲直り』というサイケディックな看板も注目だ。おやじギャグ炸裂の看板前で記念写真を撮りましょう。仲通りには懐かしの歌声スナックがある。西多摩地区で初めてできたスナックだという。昔懐かしの曲がたくさんあるという。

スナックの看板 スナック

対面の肉屋さんには自家製のギョーザ・シューマイ・コロッケが売っていて、なんと『焼肉のたれ300円』まで手作り商品として売っているではないか。

店 八百屋

肉屋の先にあるお茶屋さんはおばあさんがやっていてアットホームな雰囲気。今日は「市民会館にでかけています」というはり紙があって留守。律義に行き先まで書くのが年配者らしい配慮。となりの歯科はウサギが人参をかじっている看板。ユルイ。仲通りを出て、駅前通りを横断すると福岡産の「ひしの実」や熊本産の「栗」を売っている八百屋がある。ひしの実は桑の実に似たナッツだ。その先の花屋さんの奥さんはアメリカに花のデザインを勉強にいったかた。「ウチはもともと生産者なんです。戦前はお花を菰で包み、大八車に積んで甲州街道を通って浅草橋の花市場に持っていたそうですよ」

医院

花屋さんをあとにしてラーメン屋の角を左折すると、七兵衛通りに出る。七兵衛が誰かはわからん。左手の医院は医師の名前が2つつながった珍しいネーミング。隣には庭にシュロが七本植わっている。素敵なモルタル造りの自宅があるが、ここがもとの医院だそうだ。その並びには入り口がオレンジで、店全体がカーテンで隠されている不思議な喫茶店。

天ぷら屋 天ぷら屋

ちょいと歩くと、檀一雄や佐藤春夫も通った名店の天ぷら屋もある(天丼800円)。いつも観光客でいっぱい。この天ぷら屋で七兵衛通りは一応オシマイ。右にいけば図書館しかないので、左へ曲がることにする。

古い家 日本そば屋

少しあるいて右へいくとまた七兵衛通りが始まる。手打ち一筋50年の日本そば屋があり、にしんそばがオススメだ。ご主人が京都は南座の松葉という名店で修業してきた味だ。「白い粉を使う更級系とは反対で、ひきぐるみというまっくろな純内国産石臼田舎粉を使っています」そば屋の対面が木造のイイ感じの美容室。ユルイ。寿司屋を経由して路地を通ると旧青梅街道に出てしまった。

美容室

(続く)

   

スカラ座

◆文通と名曲喫茶
マッチインターネットどころがパソコン通信も普及していないころは、見たこともない遠くの異性・同性とコンタクトをとるには「文通」という手段しかなかった。雑誌の読者欄には文通コーナーというのが設けられていて、「山本リンダファンのかた文通しよう」だの、「宇宙の神秘に興味あるかたと」なんてメッセージが掲載されていたわけだ。コーナーはたいてい「男性」「女性」「どなたでも」と分類されていた。女性が女性と文通するのはわかるが、明らかに男名前のメッセージで「お近くのかた、男性女性問わず文通しよう」なんてメッセージ、おめーの下心を誰が信じるかい!
でボクも高校生のころ、文通をしていたわけで最初はコクヨの便箋に書いていたのだけど、だんだんエスカレートして丸善のオリジナル便箋の●●番(失念)を買ってくるとか、封皮をロウで封緘するとか、いろいろ凝っていたのだ。一遍に3人も4人も文通相手がいると、一人に10枚くらい書いていたので毎日が忙しい。手書きだからカット&ペーストなんかできないし、同じ日常のできごとを書くにしても、そのころから小さく燃えていた作家魂で、それぞれ違う描写をしてしまうわけだ。毎日、短編小説を書いているようなワケで、勉強しているヒマがない。

文通のことばかり書いてなかなか名曲喫茶にたどりつけなくて申し訳ない。もうちょっとでたどりつくからお待ちあれ。

で、女子高生に手紙を書いているとウチは狭い平屋建てだったから子ども部屋もなく、いつ、親が背後から忍び寄ってくるかわからない。「貴女の実生活に白樺派の思索をアウフヘーベンさせることに僕は共感を禁じ得ない」なんて背伸びして書いている文面をみられたら、とってもとっても恥ずかしいわけだ。
そのころ(昭和55年)御茶ノ水駅前には名曲喫茶があった。「丘」、「ウイーン」のうち「ウイーン」という中世欧州の王城のような建物が気にいっていて、学校をサボるときは千葉の稲毛から総武線に乗って、「丘」でモーニングを食べていた。
誰に教わったのか、自分で発見したのかはわからないが、名曲喫茶が自分にとって落ちつく場所であることを発見していた。薄暗い照明にバロック音楽を中心としたクラシック音楽。木製の床に木製のテーブルと椅子なので、客の出入りで床を叩く音も、椅子をひいて床に擦れる音も柔らかい。茶色いベロアのふかふか椅子と白いリネンは物思いに更けるには最高である。そして他の喫茶店と違って客席も多く(丘は3階建てだった気がする)、長い時間いても大丈夫である。高校生はお金がないのでその点が助かった。いや平気といっても店の人に確認したわけではない。しかし朝9時から昼1時過ぎまでいても一度も咎められたことはない。ここでゆっくりと文通相手に手紙を書いているのが幸せな時間であった。
「いま、僕は東京の名曲喫茶に来て手紙を書いています。ショートピースのバージニアの香りが心地よいです。そちらはもう雪を見ましたか?」なんて書いちゃうワケよ。ぎゃはははは!
僕にとって名曲喫茶は、都会の喧騒のなかで唯一安心出来る「羊水」だったのです。

スカラ座 看板

◆消えるスカラ座

スカラ座

いつのまにか丘もウイーンもなくなり、西神田の「白十字」や神田松栄亭近くの「ショパン」や銀座「らんぶる」にいくようになったが、新宿の「スカラ座」をいつ知ったかはわからない。たぶん、名物「ソイ丼」を食べるために「つるかめ食堂」に行き、そのまん前に立っているツタのからまるスカラ座が目に入ったのではアルマイト。いや、あるまいか。

スカラ座

椿姫のマッチ図案がレトロで、いっぺんで僕はスカラ座ファンになった。半地下には暖炉があったかと思うのだが、いつも中2階に通されてしまい座ったことは一度くらいしかない。小学校の木造校舎や昔のバスの床を思わせる木の床はいつも掃除が行き届いている。どのウエイター・ウエイトレスさんも落ち着いた仕草で、そんなところもいつ行っても安心できる気持ちが落ち着く喫茶店である。渋谷のライオンは一人客が名曲に耳を傾けているので、会話禁止ではないが憚れるところがある。しかしスカラ座はハコが大きいのでよっぽど大声を出さない限り会話していても迷惑にならないのだ。

中2階左手

僕は窓側が好きなので、中2階左手に坐ることが多い。窓からとなりの「王城」が見える。一時テレクラになっていたが、その前は確かここも名曲喫茶の時代があったのではなかったか。

椅子昭和29年にスカラ座はオープン、ミラノのスカラ座から名前をとったそうだ。シャンデリアも欧州から輸入した家具も当時のままだという。11月下旬に行ったときにはクリスマス仕様の飾り付けがなされていた。赤いビロードに白いリネンがかかる椅子がレトロな名曲喫茶感をかもし出している。白いリネンは昔はポマードを付けた男性が多かったから椅子に油染みがつくのを防いでいたのではないだろうか。観光バスや新幹線の座席もそうである。

肉厚のカップ

スカラ座の珈琲は苦みがうまい。炭火焼珈琲がいっとき流行したが、ここはその前から炭火焙煎を謳っていたのではなかったか。しかも肉厚のカップがまたいいんです。食べ物は味だけでなく、唇へあたったときの感覚、のどごしなどの触感も大事だと思う。珈琲は厚手で、紅茶は薄手で、これ実感。あとスカラ座には「ミルクサイダー」というメニュー、それからジンジャエールと何かをブレンドした、変わり種のソフトドリンクのメニューがある。珈琲は700円だけど17時までは500円だ。
会計伝票の裏会計伝票の裏にはマルシンハンバーグの「ミミちゃん」か森永ホモ牛乳の「ホモちゃん」のようなウエイトレスが描かれている。こいつもなかなかカワイイ。
レトロ界では「スカラ座が閉店する」というウワサが駆け巡って衝撃を与えているが、ホントに今年12月で閉店するようだ。歌声喫茶カチューシャも昨年閉店したし、21世紀はレトロ好きにとっては昭和30年代が消える時代となりましたなあ。

マッチ箱

【了】:書きおろし

●スカラ座案内【閉店】※データは当時のもの
新宿区歌舞伎町1-14-1
03-3200-3320
10:00~17:00までは
コーヒー500円(通常700円)

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Author


    串間 努 -Tsutomu Kushima-
    昭和B級文化を記録したミニコミ雑誌『日曜研究家』が話題となり、執筆活動等マルチに活躍する昭和レトロ文化研究の第一人者。 現在もミニコミ誌『旅と趣味』『昭和レトロ学研究』を発行、精力的な大衆文化の記録・収集を続けている。

    旧サイト連載:
    日曜研究家チャンネル
    レトロおじ散歩
    涙と怒りの「まぼろし通販百科」
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