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「昭和のライフ」タイトル

アカデミア青木

鶏卵

第30回 鶏卵は「物価の優等生」?


 高度成長期、子供に人気だったのは「巨人、大鵬、卵焼き」といわれるが、この中で小生にとって一番思い入れが深いのは「卵焼き」である。幼稚園に持参する弁当には、大抵、卵焼きか赤いウィンナーが入っていた。また、小学3年の頃初めて料理にチャレンジしたが、その時作ったのが「目玉焼き」だった。卵がうまく割れずに殻が中に入り、あせって火加減を誤って見事失敗。あの炭化しかけた卵の味は、今でも忘れることはできない…。このように子供にとって身近な鶏卵も、その昔は高級品だった。古典落語の『長屋の花見』には貧乏長屋の一行が沢庵を卵焼きに見立てて食べる場面が出てくるし、終戦直後には病人へのお見舞いとして卵が贈られることがあった。かつて高級品だった鶏卵が、いかにして安価で価格変動の少ない「物価の優等生」となったのか?今回の昭和のライフではその謎を解き明かしてみたい。

1.近代養鶏の始まり

 日本人にとって、鶏は古くから身近な存在だった。『古事記』の天の岩戸神話では、岩戸の中に隠れた天照大神をだますために、神々が鶏を集めて鳴かせている。また、「にわとり」という呼称は、鶏を庭先で飼っていたことに由来し、上代には鶏を「庭つ鳥」と呼んでいた。近代以前、鶏は娯楽(闘鶏・愛玩)の対象として飼われることが多く、専ら食用となったのは明治になってからの事。鶏肉を使った料理は江戸時代中期から現れるが、当時の人は鶏よりはウズラや鴨、雉、雀、ツグミといった野生の鳥を好んだため、残念ながら主流にはならなかった。
 明治維新後、西洋料理が日本に入ってくるようになると、日本固有の地鶏に代わって西洋種が好まれるようになる。明治20年には、レグホン(卵用)、ブラマ(肉用)といった西洋の鶏が輸入され、2年後の22年に飼育ブームが起こる。レグホンは1つがい1円だったものが30〜35円に、ブラマは3円だったのが60〜80円になったという。

 表1によると、明治12年の鶏卵価格は100匁(375g)当たり10銭。物価のものさしとして使われることの多い「白米」10Kgの小売価格と比べてみると、12年の卵価は明治10年の白米の小売価格51銭の19.6%、15年の米価82銭の12.2%に相当した。明治32年には卵価は15銭と20年前の1.5倍となるが、米との価格比は明治30年米の13.4%、35年米の12.6%と、明治12年の時とあまり変化していない。このように、卵価と米価はある程度連動していたのだ。

レグホン
レグホン

2.鶏卵需要の高まりと政府の対応

 日露戦争の後、日本の重工業化が進み、工場を擁する都市には人口が集中した。近郊の田畑は住宅地へと変わり、商店街が出現し、都市は膨張を続けて大都市となった。そこには工場労働者だけではなく、市民にサービスを提供する会社員や銀行員も暮らしていた。彼らサラリーマン層の食生活は和洋折衷で、オムレツ、コロッケといった鶏卵を使う料理も大いに食べた。そのため、大正時代に入りサラリーマン層が更に厚みを増すにつれて、鶏卵の需要も右肩上がりに増加していった。
 鶏卵需要の高まりの結果、鶏卵価格は大正元年の20銭から、8年には38銭、13年には46銭と高騰。国内生産だけでは需要を満たしきれず、中国から卵が大量に輸入された。これを俗に「上海卵」といった。大正12年に日本で消費された鶏卵の数は21億9036万8千個で、うち中国からの輸入は6億3885万3千個。大正7年の輸入高の実に9倍に達していた。大正14年の鶏卵価格は、1個換算で国産が7〜8銭なのに対して、上海卵が2〜3銭。そのまま放っておけば、日本の養鶏業が潰滅するおそれがあった。そこで、国は昭和2年になって「鶏卵増産10ヶ年計画」を策定。全国5ヶ所に国立の種鶏場を設置して、鶏の改良繁殖、種びなの払い下げ、民間鶏の産卵能力の検定、養鶏技術の普及に努める一方で、県や団体の事業や施設には補助金を交付するなどして支援した。
 10年を待たずしてその成果は現れ、表1にあるように、昭和7年に鶏卵の輸出入が逆転、10年には輸入ゼロとなった。鶏卵価格も急速に低下し、昭和7年には100匁17銭と昭和元年の4割の水準に落ち着き、当局の目指した「鶏卵の自給」は見事に達成されることとなった。
 しかし、それは長くは続かなかった。第二次大戦が勃発すると、鶏卵価格は上昇に転じ、昭和8年に21銭だったのが、20年には1円50銭と7倍に跳ね上がった。鶏卵100匁と米10Kgの価格比は、大正8年から昭和14年にかけてが9.8〜12.5%だったのに対して、昭和20年には150÷600=25%と倍増している。卵価と米価の間の連動性が崩れたのは、穀物不足が原因している。養鶏場に回される飼料が減り、飼える鶏の数が減ったため、卵の相対価格が上昇したのだ。ちなみに飼養羽数は、自給自足が達成されていた昭和9年から11年にかけて平均5150万羽だったのが、終戦の年の20年には1800万羽、翌21年には1500万羽と激減している。

3.新技術導入で「物価の優等生」に

 戦後の混乱期を経て、昭和24〜25年頃になると食料、飼料事情に明るい見通しがつくようになり、国民経済の回復に伴って鶏卵消費も増加した。表2には、戦後の鶏卵価格&1世帯当たりの年間購入量の推移が示されているが、昭和22年の1世帯当たりの年間購入量はわずかに45個。それが、25年には147個になっている。

 鶏卵消費量が戦前の水準に回復するのは昭和28年頃。表3によれば、28年の都市1世帯当たりの年間鶏卵消費量は265個。鶏卵の自給が達成されていた昭和10年の1人当たりの年間消費量は、(国内生産36億867万個−輸出2637万個)÷人口6866万2千人=52.2個。1世帯を夫婦と子供3人と仮定してこれを単純に5倍すると、1世帯当たりの年間消費量は約261個になる。
 鶏卵消費量はその後も増加し続けるが、これには「食の欧米化」が寄与している。昭和20年代末から昭和30年代半ばまでの農村、都市、東京における鶏卵の消費状況を表3で見ると、卵の消費が卵の生産地である農村より都市、とりわけ東京の方で盛んだったことがわかる。1世帯当たりの年間鶏卵消費量が400個を越えた年は、東京では昭和29年だったのに対し、都市部で昭和33年、農村部では昭和35年と時間差がある。これは、卵を材料とするパンや洋菓子、西洋料理が東京から地方都市へと広まり、更に学校給食やテレビの料理番組を通じて全国津々浦々に普及したことが背景にあると思う。
 昭和45年、1世帯当たりの鶏卵購入量は表2にある通り、748個とピークを迎える。これは終戦直後の22年の16.6倍、戦前のピーク期だった10年の2.9倍の水準だが、一方で、卵の価格は昭和30年から45年にかけての15年間で11.8%しか上昇しておらず、まさに「物価の優等生」であった。
 鶏卵の消費量が急伸しているのに、なぜ価格の伸びが低かったのか?その秘密を解く鍵は、昭和30年代に起きた飼養法の革命にある。それまで主流だった飼養法は「平飼い」と呼ばれるもので、鶏は鶏舎内を自由に運動して自然に近い状態で生活することができた。この飼養法には、「労力が少なくできる」、「超多産な鶏や産卵期間の長い鶏が出現しやすい」、という長所があったが、他方、「群の中でイジメが起こって犠牲になる鶏が出る」、「個別の管理が難しく、産卵成績の悪い鶏を発見するのが難しい」、といった短所もあった。昭和30年代になって導入された新しい飼養法は、「ケージ飼養」と呼ばれるもので、鶏を30cm四方以内の籠に入れて、1羽1羽隔離して飼うという方法だった。この方法は平飼いに対して、「ケージを何段にも重ねられるため、少ない面積で多数の鶏を飼うことができる」、「ケンカで鶏を傷つけることがなくなる」、「個別の体調管理・生産管理が容易になる」、「糞が床面を通過して落下するので衛生的」、というメリットがあった。とりわけ、「少ない面積で多数の鶏を飼える」ことは、養鶏農家にとって魅力的だった。鶏舎建設に費用がかかっても、大量の卵を効率的に生産することで十分利益を上げられるからだ。しかし、規模が大きくなることから、従来のように農家が副業として行うのには難があった。飼養戸数は、ケージ飼養が普及し始める昭和34年以降、減少の道をたどる。昭和30年に450万8千戸あった飼養戸数は、表4にある通り、35年には383万9千戸、40年には322万7千戸、45年には169万6千戸となった。一方、1戸当たりの飼養羽数は昭和30年に約10羽だったものが、35年には14.2羽、40年には27.0羽、45年には70.0羽と、15年間で実に7倍。養鶏業も高度成長したのだ。ケージ飼養の普及によって鶏卵の生産効率は飛躍的に向上、十分な量の卵を市場に供給し続けた結果、需要は常に満たされ、卵の価格上昇は低く押さえられた。

平飼い鶏舎
平飼い鶏舎(『日本家庭大百科事彙』冨山房 昭和5年 の「鶏」の項より)

4.オイルショックを越えて

 昭和48年秋、「物価の優等生」だった鶏卵がその称号を返上しなくてはならなくなった。世にいう「オイルショック」の到来である。石油価格の高騰をきっかけに、飼料代や光熱費、設備費などが一斉に上昇、養鶏場の経営努力だけではコストアップ分を吸収しきれず、価格に転嫁せざるをえなくなったのだ。昭和47年に100g当たり22.97円だった鶏卵価格は、翌48年には25.67円と前年比11.8%の上昇。この1年間の上昇率は、奇しくも昭和30年から45年にかけての15年間分と同じだった。これをきっかけにして、鶏卵価格はアップ・ダウンを繰り返すようになり、不安定な状況が長く続いた。価格安定のために、生産者間で飼養羽数の凍結を申し合わせたり、基金を積み増したりしたが、結局うまくいかず、コスト競争に敗れた農家が続々廃業していった。
 昭和56年、国際穀物相場の高騰から輸入配合飼料の価格がトン当たり約6万7千円を付け、この年鶏卵価格は史上最高値となるが、62年になると一転暴落を起こす。昭和61年、円高や穀物相場の低落で飼料価格が低下、飼養羽数1万羽を超える大規模養鶏場の間で増羽競争が起こり、翌昭和62年2月時点の全国の飼養羽数は前年比4.3%増の1億3520万羽となった。56年から61年にかけての年平均増加率が約1.3%だったから、これはその3.4倍に当たる。羽数急増の結果、昭和61年に100g31.56円だった鶏卵価格は、翌年には3割減の22.80円と暴落。1パック10個入り100円の卵がスーパーの店頭に並び、ラーメン店でゆで卵の無料サービスで行われるなどのニュースが報じられた。
 平成4年以降、鶏卵価格は落ち着きを取り戻し、今日再び「物価の優等生」の顔を見せ始めている。1戸当たりの飼養羽数は平成に入っても増加を続け、平成3年以降は統計の取り方が変わるが、1戸当たり1万羽を超え、現在3万羽台になっている。増羽の担い手は10万羽を超えるクラスのマンモス養鶏場で、少ない飼料で多くの卵を産む品種を導入したり、窓の無い鶏舎で人工灯火の下、温度・湿度を一定にさせて卵を産ませやすいようにホルモンを刺激したり、コンピュータを導入して産卵率に合わせて飼料を管理し、集卵−洗卵−パッキングを自動化したりと、機械化が進んでいる
 大規模化・機械化の恩恵により、少人数で大量の鶏卵を安価に生産することができるのだが、リスクもある。昨今問題になっている「鳥インフルエンザ」禍もその1つだ。渡り鳥に由来する鳥インフルエンザがどのような経路で鶏に伝染するのかははっきりしないが、いったん発病したら鶏舎内の鶏を全て処分しなくてはならなくなる。鶏舎内で飼われる数が万単位になった昨今、その経済的な損失は計り知れない。今冬、宮崎県や岡山県で鳥インフルエンザが発生したが、農水省は近畿、中国、四国、九州にある1千羽以上の鶏を飼う養鶏場に緊急消毒を命じている。その数約4千箇所。何時の時代も「物価の優等生」の悩みは尽きることがない。

玉子塚
築地・波除稲荷神社内にある玉子塚

[参考文献

山口健児『ものと人間の文化史49 鶏』法政大学出版局 昭和58年

内田清之助『卵のひみつ』国土社 昭和54年

長谷川保『新しい養鶏の技術』家の光協会 昭和43年(第4版)

『日本家庭大百科事彙』冨山房 昭和5年 の「鶏」の項

『世界大百科事典』平凡社 昭和47年 の「養鶏」の項

朝倉治彦・稲村徹元編『新装版 明治世相編年辞典』東京堂出版 平成7年

大阪朝日新聞経済部編『商売うらおもて』日本評論社 大正14年

『朝日新聞』昭和62年8月13日付夕刊9面

同 平成2年9月14日付夕刊8面

農林水産省『畜産統計』]



2007年3月23日更新


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