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第12回 1964年(昭和39年)


東京オリンピック,七人の孫

 「1964年といえば、なんといっても“東京オリンピック”だよね。1940年の第12回大会は日本に決まっていたけど戦争で中止になり、スポーツ関係者だけでなく、国民の大半にその記憶があって、日本人にとっては念願だったんだ。夏祭りの盆踊りでは三波春夫が歌う「東京五輪音頭」一色で、オリンピックを盛上げたものだよ。それに初めてのアジアでの大会ということで世界中に注目されていた。日本経済は急成長を遂げていて、テレビの新技術を試す絶好の機会でもあったんだよ」
 「新技術って?」
 「衛星中継、カラー放送、スローVTRなどでね。特に衛星中継は前年、アメリカから日本への実験が行われ、その時とびこんできたのがケネディー大統領の暗殺ニュースだった。日本からアメリカへの実験は3月に行われ、その時送られたのが、ライシャワー駐日大使が暴漢に刺されたニュースで、即応性ということでテレビの威力を証明した実験だった」
 「本番がオリンピックの開会式なのね」
 「そうなんだよ。“シンコム3号”で世界中に衛星中継された。過去最高の94ヶ国が参加し、視聴率が80%を超えたんだ。トリニダード・トバコとかカメルーンなんて国は、入場行進を見て初めて知った国だったね。開会式が行われた10月10日が、後に“体育の日”として祭日に指定されたことは貴女も知っているね。オリンピック期間中は、NHKのテレビ放送は1日中オリンピックの中継をしていた。体育の時間はテレビでオリンピック観戦だった。女子バレーボール決勝戦(対ソ蓮戦)は瞬間最大視聴率が95%に達したんだよ。勝利が決まった瞬間、近所中で歓声があがってね。今から考えると、恐ろしいくらい日本人が心を一つにしていたんだ。日本人選手の活躍もさることながら、マラソンのアベベ、100メートル走のヘイズ、水泳のショランダー、体操のチャスラフスカ、柔道のヘーシンクなどの外国選手も大きな話題になった。日本中がオリンピック一色だったね」
 「オリンピックにあわせて、首都高速や環状七号線ができて、羽田空港・浜松町間にモノレールや東海道新幹線が開通したのよね。オリンピックは日本の経済成長を証明したわけね」
 「そうなんだ。この経済成長に伴って都心部では核家族化が一般化してくるんだ。そして、大家族への郷愁を感じ始めた視聴者に応えるように『七人の孫』や『ただいま11人』といった大家族ドラマが64年に登場してくる。『七人の孫』は、明治・大正・昭和の三世代が登場するホームドラマで、森繁久弥の初めての連続ドラマ出演だった。世代間ギャップという社会問題にマッチして人気を集めた。お手伝いさんの樹木希林(当時は悠木千帆)と森繁じいさんのやり取りが面白かったねェ。『ただいま11人』は、山村聰と荒木道子の夫婦に、息子二人・娘七人という大家族。父親の定年問題、娘の結婚や就職、進学問題を取り上げ、幅広い層で共感を集めた。最近のホームドラマと違い、時代に合った将来に夢の持てる理想の家族像が描かれていたね」

参考資料:テレビドラマ全史(東京ニュース通信社)、テレビ史ハンドブック(自由国民社)


2005年5月19日更新


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