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第14回「LSIゲームの悲哀」の巻
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わたくし、室内で遊ぶのが好きでした。
一人っ子で、郊外に育って、幼稚園に行かなかったので、同年代の友達が、小学校にあがるまでいなかったのだ(小学校になっても、私はあらかじめ友達に「今度の土曜日遊ばないか」といわず、いきなり訪問するものだから、他の友達と遊びに行かれていることが多かった。勇んで「●●ちゃん」と門を叩いても返答がなく、ひとりで自転車にとってかえして町内をブラブラ乗りまわしているだけ。あれは虚しいものですな)。
いちばん好きだったのが紙で牧場の模型をつくることだった。なにかの情景を作ることに興味があるのは、いまでも小説よりノンフィクションが好きなことと関わっているのだろう。牛乳パックで自動販売機の模型を作ることにも凝った。もちろん十円を入れると何か物がころがり落ちるような設計をするのだが、そんな複雑なことは5歳の手にはあまった。『スパイ手帳』が流行すれば、それを真似て自分で紙をとじてみた。学校前で怪しいおじさんが『カーボン印刷機』を売っていれば、仕掛けを見破って自分でカーボン紙をボール紙の枠に貼ってみた。縁日で売っている『吹き矢』の矢が無くなれば新聞紙を円錐にまるめて生産してみた。紙に関する工作、工夫に異常に関心がある子どもであったからインドア遊びは苦ではない。
今は、コンピュータゲームが大流行だが、そこまで行きつくまでには、たくさんのゲームがあった。まず、ゲームはスゴロクをはじめとする、厚紙などの「盤ゲーム」だった。そして、TVゲームのように1人や2人でやるものではなく、兄弟・家族そろって、あるいは友達をあつめて大勢でやるものだった。
戦後になって、大手玩具メーカーの野球盤や人生ゲームがブームになっても、基本的に盤ゲームが人気であることに変わりはなかった。
しかし、昭和50年代、「光」が加わることで、盤ゲームの世界は新しい時代を迎えることになった。昭和50年のエポック社「テレビテニス」という元祖テレビゲームの登場を受け、ハンディサイズで、電池を使った電子ゲームが登場したのだ。初期の頃は「LED」(光表示)という赤く光る半導体だったが、後に蛍光管を並べて表示する「FL」や、液晶で表示する「LCD」などに進化した。「LSIゲーム」ともいう。ハードの面でいうとゲームというものが巨大な「盤」から解き放たれ瞬間であった。これ以降、ゲームの盤面はどんどん小さくなっていく(反面、ソフトの面ではリアルさが後退した)。
私は野球のゲームが欲しかった。電子音ながらも歓声が聞こえるし、ヒットを打てばピカピカとランナーが自動的に進む。スコアボードに点数の紙を入れる手間もない。すべてが自動に行われるのだ。サイコロを転がしてやっていた簡易野球や野球盤とはおお違いだ(友達や兄弟がいない子どもがゲームをやる場合問題なのは対戦相手である。盤ゲームは無理だが電気を使ったゲームは自動的に対戦してくれる。ゲームセンターが受けたのはそういうわけだし、テレビゲームなどが隆盛になったのも少子化の流れでは当然の帰結だ。間違えて欲しくないのは『いまの子どもは外で遊ばなくなった』のではない。「遊びの3つの間」である空間・仲間・時間を奪ったのは大人たちである)。
しかし「LSIゲーム」は高かった。6千円から8千円はする。そのため、「千葉寺野球リーグを作るから、君も1チーム持って、ペナント戦をやろう」と友人6人くらいに声をかけ、1人あたり千円くらいを集金して扇屋デパートに買いにいった。だが一度もペナントレースは開かれることはなかった。高価だったので誰が保管しておくかが問題となったハズだが、今では誰が持っているのかわからない……。
その「LSIゲーム」も昭和55年の任天堂ゲーム&ウオッチの大ブームで打撃を受け、昭和59年のファミリーコンピュータの登場でエレクトロニクスゲームの王座を降りた。ハードウエアの進歩は著しかった。
たった6〜7年という短命で終わった電子ゲームだが、携帯電話のコンテンツ、ミニゲームにその心は受け継がれているような気がする。
●報知新聞を改稿、加筆
2004年4月23日更新
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