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「昭和のライフ」タイトル

アカデミア青木

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第36回 薄くなっていくシャケ弁の鮭


 小生が子供だった頃、年末になると新潟の祖母の家から塩引きの鮭がまるまる一本送られてきた。包丁を振るって豪快に鮭を切り身にしていく母の横で、鮭好きの弟が目を輝かせていたことが、昨日のように思い出される。それから30数年。年々薄くなっていく昼の弁当の鮭の切り身を眺めつつ、今回の昭和のライフでは鮭の戦後について眺めてみたい。

1.戦前までの鮭事情
 今般、シロザケ、ベニザケ、ギンザケ、カラフトマスなどが「サケ」と呼ばれているが、日本人にとって最も身近なサケはシロザケである。

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日本海側は石川県、太平洋側は茨城県(千葉県の一部河川も含む)以北の川で産卵し、稚魚は海に下って、3〜6年後再び川へ戻ってくる。そのため非常に古くから食用とされた。東北地方の縄文時代の遺跡からは鮭らしい魚を線刻した「鮭石」が多く見つかっている。また、平安時代には塩鮭が貢租とし京に運ばれた。中世になると騒乱が続き塩蔵法は衰えたが、江戸時代に入ると、奥羽から蝦夷地の松前にかけて「塩引き鮭」が作られるようになる。その製法は、鮭の内臓を除き、水洗、水切りしてから、腹の中やエラに食塩を詰め、ムシロの上に並べ、合い塩をしながら山積みにし、ムシロで覆い数日置くというもので、鮭の重さの35〜38%の食塩を添加するため、切り身に含まれる食塩量も8%位になり、保存性が高くなる。一方、薄塩の荒巻鮭が登場するのは江戸後期。その名前は北前船が蝦夷に塩を運び、帰りにサケを仕入れ、要らなくなった塩のムシロに塩鮭を巻いたところから付けられたという説があり、寛政年間(1790年頃)の荒巻の製法が残されている。ところで、今日、荒巻鮭には「新巻鮭」の字が当てられているが、いつ頃からそうなったのか?昭和3年発行の『日本家庭大百科事彙』(冨山房)を見ると、「12月初めに出回る新鮭のうち、北海道・西別(根室・西別川)産の薄塩物を指す」とあるが、一方、『水産加工品総覧』(光琳 昭和58年)には、「荒巻鮭に使われる塩の量は年々少なくなり、昭和に入って『荒巻』は『新巻』になったようだ。当初は石狩川で獲れたばかりの鮭をあっさりと薄塩にしたものを指し、鮭漁場での自家消費用として作られていたものが、後に札幌や近郷で販売するために製造されるようになり、消費者の好評と交通機関の発達を受けて、販路を拡大していった」という旨の記述がある。最初に呼ばれた鮭の産地が両者の間で異なるものの、「新巻鮭」の呼称は昭和の初めまで遡れそうだ。
 鮭が商品として流通するようになると、本土から蝦夷地へ移住する者が現れ、彼らの手によって相次いで漁法が改良された。文化年間(1804年頃)には、建網が考案され、河川での漁業から沿岸での漁業へと漁場が広がる。沿岸での漁は明治22年頃にピークを迎えるが、乱獲と河川の荒廃によって次第に減少していった。その一方で、明治初期(1870年代)にカラフトまで進出した漁業者が、沿海州やアムール方面まで進出。明治40年には日露漁業条約が締結され、最盛期にはオホーツク海沿岸、東カムチャッカ沿岸などにある308のロシア領の漁区を借地して沿岸鮭漁が行われた。しかし、ロシアでの操業には絶えず圧迫が加えられたため、これを打開すべく沖合の公海での漁が試みられた。その努力が実り、大正8年の漁業条約改定を機に、沖合公海での母船式サケ・マス漁業が生まれることになった。昭和7年には北千島を根拠地とする流し網漁も始まり、北洋のサケ・マス漁は表1にもある通り、昭和10年代前半に最盛期を迎えることになった。
(表1 戦前の鮭・マス類の漁獲量推移)


2.戦後の鮭事情
 第二次大戦の勃発、ソ連の参戦、戦後のマッカーサー・ラインによる規制を受けて、北洋のサケ・マス漁は一時途絶した。この間、国内の河川・沿岸での漁が中心になっていたが、昭和27年に対日講和条約が発効すると、日本漁船は再び北の海を目指した。表2は戦後の鮭・マス類の漁獲量推移を示しているが、全漁獲に占める内水面(国内の河川・湖沼)での漁獲の割合は、昭和27年に4.48%だったのが、翌28年には2.19%と半減している。

29年からはアリューシャン海域にも進出、流し網に合成繊維が採用されるようになると日本船団の水揚げは一層向上、鮭の全漁獲量は33年に20.2万トンとピークを迎えた。表3−1によれば、この時の1世帯当たりの塩鮭購入量は2809g。一方、表3−2では、同年の生鮭購入量は2145g。単純合計すると、4954gの鮭の身が食べられたことになる。

 鮭というとよく弁当に入っていた塩鮭が目に浮かぶが、こちらの年間購入量は30年に小ピークを迎えた後、昭和40年にかけて減少している。40年の購入量は33年に比べると56.1%の水準。同年の生鮭の水準が87.1%だから、塩鮭の落ち込みが目立つ。これは、冷蔵庫の普及によって保存性はあるが塩辛い塩鮭が敬遠され、生鮭が好まれるようになったからではないだろうか?そう考えると、高度成長期いち早く冷蔵庫が普及した東京が、生鮭の購入ベスト5で、35年に4位、40年に3位を占めている説明が何となく付く。
 サケ・マス漁の方はしばしの盛況の後、苦難の道を歩むことになる。昭和31年、ソ連がブルガーニン・ラインを設定して操業海域規制を宣言、以後、漁獲制限、オホーツク海域への出漁禁止(34年)を打ち出すようになった。漁獲量は漸減し、北洋の日本船団は削減を余儀なくされた。年々の漁業交渉で、操業海域、漁期、漁具に制限が加えられ、更に、52年になると「200海里漁業専管水域」の設定、「サケ・マス類の母川国主義」が唱えられるようになった。アメリカ、カナダ、ソ連は一段と厳しい漁業規制を課し、北洋漁業に危機が訪れた。
 この状況を打破するため、関係各位が近年力を入れているのが「鮭の人工孵化事業」である。川に遡上した鮭を捉え、卵を取り出し、人工授精を施し、稚魚に孵化させ、稚魚をある程度の大きさまで育てて放流する。この技術がアメリカから導入されたのは、明治10年と意外に古い。鮭の漁場が河川→沿岸→沖合→遠洋と広がっていく中でも研究は地道に続けられ、昭和50年に入ると大きく花開いた。50年の鮭の回帰量は1760万尾。以後、その数は着実に増えて、56年の来遊量は2980万尾(10.9万トン)と、北洋海域での許容漁獲量4.25万トンの2.5倍に達した。全漁獲に占める内水面での漁獲の割合も、北洋の漁が盛んだった高度成長期には1%前後だったのが、昭和50年に3.99%、55年に6.96%、60年に5.00%と、高まっている。
 昭和50年代〜60年代にかけて、塩鮭&生鮭の価格は200海里問題を受けて、表3−1、3−2にある通り上昇した。昭和60年の塩鮭価格は100g191.91円。一方、生鮭価格は148.68円。塩鮭で昭和33年の7.5倍、生鮭で6倍に達した。この間、生鮭の購入量が減少して、塩鮭の購入量が増加しているが、塩鮭の購入ベスト5を見ると、上位の都市はいずれも鮭の遡上する地域の県にあり、東京や大阪などで塩鮭のブームが起った形跡はない。地元の河川に回帰する鮭が増えたため、それを原料にして作っている塩鮭の購入量も自ずと増えたのかもしれない。
 平成に入り、ソ連の崩壊、ロシア産海産物の輸入増加を受けて、鮭の価格が下がってきたためか、生鮭の購入量が増えてきている。一方、塩鮭の購入量は「減塩ブーム」のあおりを受けて急速に減少している。ただ、日本の鮭については、河川の改修事業の影響や、沿岸海域の汚染などと常に隣り合わせにある。鮭がこれからも獲れ、庶民の味として弁当の中にあり続けることを小生は願ってやまない。

[参考文献 『日本大百科全書』小学館 平成6年(2版) の「鮭」「塩ざけ」
「サケ・マス漁業」の項 三輪勝利監修『水産加工品総覧』光琳 昭和58年]

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2007年10月17日更新


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