秋の行楽シーズンがやってくる。ちょうど遠足や修学旅行などの校外活動を行う学校も増えてくる季節だ。
遠足はもともと歩いていくものであった。しかし高速道路の整備と所得の増加のため、貸切バスによる旅行が、高度成長時代に盛んになると、バスを使ったバス遠足が増えていった。一応、バスを降りてから歩くから問題はない。バスを使用することで、遠足の目的地がより遠くまで設定できるようになっただけともいえる。
大量の小学生の鉄道機関での移動は他の乗客の迷惑になるため、プライベート性が高い貸し切りバスは、遠足に打ってつけであった。しかも40〜50人乗りで1台に一クラス分がちょうど入る。まさに移動教室。「バスレク」と称し、エコーのかからないマイクがガイドさんから渡されて、知り合いのなかで一曲歌うのは現在のカラオケボックス文化に通じるものがある。
バス旅行につきものなのが、行き先観光案内や持ち物リストがついた「旅行のしおり」である。しおりといっても本にはさむアレではない。旅行の案内書・手引きのことも「しおり」と称するのは、山道などで木の枝を折って(『枝折り』(しおり))来た道、行く道の道しるべとすることからきているのだろう。
さて、昭和四〇年代の旅行のしおりといえばB6版の横型が多かった。なぜだろう。
大きさがB5判(週刊誌大)の半分であるのは、市販の旅行ガイドが小型であるように、携行の利便性からだろう。問題は横にした理由である。当時の学校印刷は謄写版(ガリ版)が主流だった。製作する側の面からは、B4版のガリ版原紙にB6版4ページ分を配置するには、縦型よりも横型のほうがやりやすいのだ。しおりの内容そのものもも横型が適応するものが多い。バスや列車の座席表、日程の時間軸、地図などを一望するには横辺が長い方が合理的である。歌集部分も三番までの歌詞を一覧できるし、広げた際の安定も良い。製本時には短辺を綴じるから、ホチキスの針も小型のもの二回で完了するし、袋とじにする際に折るのも横長のようが楽できる。
こうして考えてみると旅行のしおりを、横型にしようと考えた教師や児童の智恵は実に素晴らしい。誰が始めたかは不詳だが年代や地域を超えて受け継がれているミニコミ文化の一種だろう。
遠足と「しおり」の関係で忘れてはならないのがお土産の「観光しおり」である。
小学生の旅行の小遣いは、100円〜300円くらいであった。一番安いお守り、キーホルダー、絵はがきを買うのがせいぜいで、中学生になってからペナント、木刀、こけしなどのお土産を買ったり、水戸納豆やサボテンなどの名産品を買えるようになる。
今回紹介する観光しおりは、明治時代から蒐集家も存在する絵ハガキと、戦後に観光地で普及した「ペナント」の利点を合わせもったものである。絵はがきよりやペナントよりも安価で、実用性も高いものである。ペナントをミニチュアにしたものが、観光しおりであるといってもよいだろう。
もともと、「観光」ということばは、中華人民共和国の言葉「観国之光」から採っている。「国の光を観る」という読み方で、外国へ行って、光(良い点・美点)を見て学んでくるという意味があるという。咸臨丸とともに、幕末にアメリカへの使節団が乗った船に「観光丸」と名付けたことが「観光」という言葉の最初の出所だという。明治になると多くの外国人が日本に来たが、日本政府は彼らを「外国人観光客」とよび、観光という言葉がひろまるようになった。
観光ペナントの前身である「ペナント」は、野球の「ペナントレース」ということばにも現れているようにスポーツ大会の優勝旗のことや船舶の信号旗に使われているものであった。それらは明治時代に欧米から上陸されたようだが、観光記念のペナントに応用されたのは戦後のことである。
絵はがきは明治33年10月1日付で、逓信省令第42号をもって民間で私製はがきの製造が許されたことに始まる。その後、日露戦争において明治37年ころから公式のものが発売され、絵はがきが大ブームとなったという。明治39年には、旅行者が絵はがきに所定の切手を貼っていれば、郵便局が記念の消印を押してもよいという御達しがでているので(「絵葉書に相当額の切手を貼付し、旅行者から記念のため日附印の押印方申出ある場合は事務支障ない限り応じる」)、このころにはすでに観光絵はがきを記念に求める習慣があったと思われる。供給するメーカー的には、京都の福井朝日堂の主人、福井熊五郎氏が絵はがきブームに着目して、先陣を切って絵はがきの製造を始めている。
ペナントは、戦後、ようやく生活に余裕もできた家庭がちらほらと出だしたころ、登山とともに観光ブームがおきて、登山の登頂記念だったペナントが、湖沼や海岸、城郭などの観光地にまで応用されるようになったのが始まりで、1950年代の後半からはじまったB級文化である。2001年1月20日の西日本新聞朝刊によれば、
<「日本で最初にペナントを作った」というのは神奈川県鎌倉市の「間タオル」だ。同社は五八年に製造開始。「当時は土産の種類も、ようかんや絵はがきぐらいだった。プロ野球のペナントをヒントに、まず富士山や東京タワーから手掛けた」>と、報じている。参考にしたというプロ野球の日本シリーズの優勝旗の二等辺三角形のペナントだが、これは1950年に初めて登場している(大リーグでは1870年代からあるという)。私としてはプロ野球のペナントの影響というよりは、マナスル登頂や北極点到達で立てるペナントにヒントがあったと思うのだが、同社がそれには触れていないのが残念。団体・チームの象徴でありながら、何かに到達したという、ゴール達成の記念の意味があるのがペナントだと、私は理解している。優勝しかり、登頂しかり、卒業しかり。石田しかり。あ、ひかりか。
1960年代には売れ行きもよかった観光ペナントだが、ポストペナントとして、「通行手形」がで、「提灯」がで、そして現在は何も記念品として特筆する物品はないという。不景気なので饅頭などの食べ物など実用品しか売れないのだ。
これは由由しき問題である。
「くだらない」と思われがちな『B級土産』をきちんと理解して(理解というより、まあ「納得」という意味合いで)、受容できるのは、フトコロに余裕がある時代でないと無理ということか。もちろん、写真機の普及で観光地へ行ったという思い出は自分たちで持ってかえることができる。しかも携帯にデジカメがついている現代である。絵はがきや観光しおり、ペナントが廃れていくのも無理のない流れではあろう。
しかし、フトコロに余裕がないときこそ、ココロには余裕を持ちたいものだ。「顔出し看板」で写真を撮ったり、帰宅したて食べそうもない山菜加工品を買ったり。頭が「わー」となって、日ごろの金銭感覚を忘れて、日常と違う雰囲気を楽しむところに旅の醍醐味がある。観光しおりやキーホルダーを「もったいない」と思うようなケツの穴の小さい人は、旅に出るんじゃないっつーの。みんなが無駄づかいしないから、温泉街などの風情がさびれていってしまうのだ。昭和レトロを心から愛するひとは、観光地商店街の振興のために、下らないモノをウンと買いましょう。
ところで、全国の名勝観光地ペナントのミニチュアを、ガチャガチャの玉にしたら受けるのではないだろうか。
●書き下ろし
2003年10月7日更新
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