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「昭和のライフ」タイトル

アカデミア青木

キャベツ

第37回 がんばれキャベツ


 小学校4年の頃、学校の遠足で銚子に行った。醤油工場の見学を終え、犬吠埼へと向かうバスの中から外を眺めると、一面のキャベツ畑。家の近所の農家の畑はこじんまりとしていて、しかも複数の野菜が作られていたが、ここの畑は右を見ても左を見ても、キャベツ、キャベツ、キャベツ。延々と続くこの光景に当てられてしまったのだろうか?帰宅後しばらくの間は、ロールキャベツが食べられなくなってしまった…。
  そんな強烈な出会いをしたキャベツだが、昨今スーパーで買い物をしていると、「1/2切り」や「1/4切り」のものをよく目にする。昔はおつかいで重いキャベツをまるまる1個カゴに入れて、青果店からエッチラオッチラ運んだものだが、それに比べると隔世の感がする。日本人はキャベツを食べなくなってしまったのか?今回の昭和のライフでは、そんな疑問について取り上げてみたい。

1.キャベツの伝来と品種改良
  ヨーロッパ原産のキャベツが日本に伝来したのは、今から約800年前。その後、17〜18世紀に再導入された。江戸時代の宝永年間に著された『大和本草』(1709年)には「おらんだな」、「さんねんな」などの記録がある。当時は食用ではなく、観賞用として栽培されたようだ。このキャベツは葉が丸まらない非結球性の品種で、華麗な外見や色彩を備えるべく長年改良が重ねられた結果、今日見る「葉牡丹」となった。

葉牡丹

  一方、食用の結球性のキャベツが導入されたのは、時代が下って安政年間(1854〜60年)。オランダ人の手を経て輸入されたようだ。本格的に栽培されるようになったのは明治5年以後で、北海道や東北地方など、欧米の気候に似た地域で栽培が始まった。明治30年には岩手キャベツ(「アーリー・サマー」と「バンダゴー」の自然交雑といわれる)から選び出された品種「南部」が作られ、野崎徳四郎によってアメリカから現在の品種の導入育成が始められた。明治末期のキャベツの全国栽培面積は約2千haで、大部分は輸入品種によっていた。それが昭和10年頃には面積1万ha以上になり、各都道府県や民間で育成された品種が使われるようになった。
  ちなみに、昭和初期の代表的品種は、早生種が「テンダー・エンド・トルー」、「プレコース・ドウ・トウルラヴィエ」、「中野早生」。中生種が「アーリー・スプリング」、「アーリー・サマー」。晩生種が「サクセッション」、「オータム・キング」。このうち「中野早生」は東京府南葛飾郡の中野庫太郎が手がけたもので、結球した形は円錐状、茎は割合に長くて高品質、結球容易で1個当たりの重さは1.5Kgになったという。
  戦後、品種改良は更に進み、一代雑種法を利用して優秀な新品種(遺伝の形質が元の種から生まれた第一世代に限り現れる)が多数開発された。昭和33〜38年にかけて、夏まき晩抽性品種を中心とする夏まき品種群や、秋まき品種群が、昭和35〜40年には、高温期栽培適応性が高い春〜初夏まき、夏〜初秋どり品種群が発表された。これらの品種の登場によって、キャベツを年間通じて出荷することが可能になった。


2.キャベツ生産の普及
  東京都練馬区石神井台1丁目に、『甘藍の碑』という碑がある。「甘藍」(かんらん)とはキャベツの古い呼称で、練馬では昭和8年に練馬大根が干ばつ、ウイルス病、連作障害を受けて栽培が難しくなったのをきっかけに、キャベツが代替作物として注目されるようになった。試作が始まるのは14年頃からだが、様々な品種が試され、最終的には19年に「サクセッション」が選ばれた。戦後の昭和21年頃から急速に普及し、26年には作付け面積が500haに及んだ。練馬区は都内最大のキャベツ産地となったのだ。昭和48年、高騰する消費者物価を抑制し、都民に新鮮で安全な野菜を安定供給するために、都と地元農協の間で「東京ふるさと野菜供給事業」が締結され、この碑はその事業の25周年を記念して、平成10年に建てられた。
  練馬のキャベツは初夏産と秋冬産の年2回だが、夏秋産のキャベツといえば、標高1000m前後の高原地帯で夏の涼しい気候を利用して栽培される「高原キャベツ」が独壇場だ。そのはしりは明治半ばの長野県軽井沢。ここに外国人避暑客の別荘が作られると、地元の商人が農家に避暑客用のキャベツの生産を勧めた。これをきっかけに明治30年頃から本格的な栽培が始まり、軽井沢を中心に、付近の村でも高原野菜が作られ出した。明治から大正中期までは地元向けに、大正末期以降は東京、名古屋、大阪などの都市に向けて野菜が出荷された。今日、高原キャベツの産地としては、群馬県嬬恋村や長野県八ヶ岳高原の名が知られているが、これらが飛躍的に発展したのは昭和40年代になってから。戦後開拓が行われた浅間山東麓の六里ヶ原や八ヶ岳東麓の野辺山高原を中心に、キャベツやハクサイ、レタスなどが大規模に作られ、村々は好況に湧いたという。


3.戦後のキャベツ消費
  キャベツはビタミンCが多く、あくが少ないので生食に適している。また、ロールキャベツのような煮込み料理やシチュー、焼きそばなどの炒め物、更には漬け物にも用いられる。戦前の献立(大妻コタカ『最新実用家事全書』研文書院 昭和15年[17版])を見ると、「味噌汁」、「漬け物」、「酢の物」、「肉入りオムレツキャベツ」、「ロールキャベツ」、が挙げられており、明治初年に入ってから60年余りで、キャベツは日本の家庭の食卓に一定の地歩を築くことに成功した。
  表1は、昭和22年〜45年にかけてのキャベツの価格並びに1世帯当たりの年間購入量、購入額の推移を示している。昭和23〜27年にかけて、価格は微増傾向、年間購入量はほぼ一定だった。ただし、24年はイレギュラーな年で、この年の価格は例年の倍、購入量は3割落ちている。これはこの年8月末に関東に上陸して農作物に大きな被害を出したキティ台風の影響なのかも知れない。

 表1には参考のために同じ葉物野菜であるハクサイのデータを添えているが、こちらは昭和23〜27年にかけて、価格は上下し、年間購入量は増加の一途をたどった。購入量は常にキャベツをリードしていたので、葉物野菜の主役はむしろこちらだったのだろう。当時ハクサイには漬け物向けの需要が多くあったので、量ではキャベツに勝ち目はなかった。ただ、価格に注目するとキャベツが常にハクサイを上回っていた。キャベツの方が相対的に高級なイメージがあったのだ。
  キャベツの価格は28年以降も上昇を続けるが、年間購入量の方は28年、29年にかけて大幅に上昇した後、43年までは毎年20Kg台後半の水準に落ち着いていた。単純に考えるなら、価格が上がれば購入量が減り、価格が下がれば購入量が増えそうなものだが、そうはなっていない。一方ハクサイでは、昭和30年代半ばまでそのような消費行動が見られた。特に昭和28年から31年の4年間にかけては、価格・購入量が増減する中で、年間購入金額は606〜613円とほぼ一定だった。商品という点から見ると、この時キャベツはまだまだ発展途上で、ハクサイは成熟していたということができる。
  当時、キャベツがハクサイに比べて相対的に高級な野菜であったことはわかったが、絶対的にはどうだったのか?そう思って、昭和27〜45年のキャベツの価格の伸びを所得の伸びと比較してみた。表2は、キャベツの価格と大卒の国家公務員上級職の初任給との比較である。

         

 これによれば、昭和27〜38年にかけて、キャベツの価格の指数が初任給の指数を上回っている。つまり、この間は「キャベツは食卓には不可欠な野菜で、多少割高になっても、人々は購入量を減らすことはしなかった」と考えられる。一方、ハクサイの指数に注目すると、初任給の指数を常に上回るのは昭和31年までで、32〜36年の間は上下を繰り返し、37年以降は常に下回った。ハクサイの年間購入量も昭和32年に43.53Kgのピークを迎えた後、減少へ転じている。
  ハクサイの落日をしり目にキャベツは繁栄を謳歌したが、それも長くは続かなかった。昭和39年以降、公務員初任給の指数がキャベツの価格の指数を上回り、キャベツの地位にも変化が訪れた。品種改良の進展、高原キャベツ大量生産時代の到来によって、年間を通じて全国のどこかでキャベツを作ることが可能となった。一年を通して市場にキャベツが出回るようになると、キャベツは高級な野菜から「庶民の野菜」になった。

 表3は昭和40年以降のキャベツの価格並びに1世帯当たりの年間購入量、購入額の推移を示したものだが、44年以降、キャベツの購入量が徐々に減っていることがわかる。ようやく年間を通じてキャベツの供給が可能になったのに、購入量が減っていけば、供給過剰になる危険が出てくる。作ればお金になったキャベツが、作ればつくるほど赤字になる。そんな時代が農家に到来したのだ。これを受けて政府は、45年7月からキャベツの産地廃棄制度をスタートさせた。キャベツの価格が暴落した際に、畑にトラクターを入れてキャベツを踏みつぶす光景は、これ以後テレビや新聞で度々報じられている。
キャベツの担っていた高級な野菜の役割は、レタスが受け継ぐことになる。表3に添えられたレタスのデータを見ると、昭和40年以降の20年間で、レタスの購入量が急速に増えていったことがわかる。昭和40年のレタスの価格は100g当たり12.56円。これが60年には42.10円になっている。キャベツとの価格差は、20年間の平均で約2.8倍。その割合は年によって2.2倍から3.6倍の間を行ったり来たりしているが、昭和40年と昭和60年の価格差はいずれも約2.9倍。レタスの高級イメージは保たれているようだ。
キャベツの購入量は昭和63年には年間20Kgを切り、平成15年には15.9Kgとピークを付けた昭和29年の32.1Kgの半分以下の水準になっている。だがキャベツ、ハクサイ、ホウレンソウ、ネギなどの葉茎菜全体の購入量は昭和29年の140.1Kgから平成15年には57.5Kgと6割近く減っている。そう考えてみると、キャベツは健闘している方なのかもしれない。がんばれキャベツ、負けるなキャベツ。春になって大きくなったら、農家に丸々1個買いに行くから。


キャベツ畑


【参考文献】
    『日本家庭大百科事彙』冨山房 昭和3年の「甘藍」の項
    『日本大百科全書』小学館 平成6年(2版)の「キャベツ」
    「高原野菜」、「嬬恋村」の項
    農文協編『野菜園芸大百科8』農山漁村文化協会 平成元年
    JA東京中央会『江戸・東京 農業名所めぐり』農山漁村文化協会 平成14年



2007年10月31日更新


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