第17回「夜動く、二宮金次郎像」の巻
子どものころから本が好きだ。図書館からたくさん借りてきて、学校と遊びの時間以外は本を読んでいた。ご飯を食べながらはもちろん、トイレでも風呂でも読んでいた。興が乗ってくると外を歩いているときも読んでいたが、そんな姿を親に目撃され「二宮金次郎じゃないんだから止めなさい!」と叱られた。それは誰かと尋ねたら、「二宮金次郎も知らないのか」と絶句。親が言うような銅像は通学する小学校に設置されていなかったのだから仕方ない。蓑がさをつけて、洪水をおこす天竜川の中に入ったひとかと聞くと、「口ばかり達者だ」といって小突かれた(その人は金原明善である)。
戦前の小学校に林立していた、二宮金次郎の銅像のルーツは、幸田露伴が作ったものであった。二宮金次郎を慕う門人が著した「報徳記」を読んだ露伴が、明治二十四年、少年向けの伝記「二宮金次郎翁」を書いたとき、口絵に薪を背負って読書する姿が描かれた。これが後の教科書に影響を与え、まず明治三十三年に「修身教典」に金次郎が登場、明治四十四年の文部省唱歌には「柴刈り縄ない草鞋をつくり、親の手を助け弟を世話し、兄弟仲良く孝行つくす、手本は二宮金次郎」と歌われた。
銅像そのものを最初につくったのは、一説には東京美術大学教授鋳金師、岡崎雪聲という鋳金師が明治四十三年に作ったとされており、これを天覧された明治天皇が気に入られたことがキッカケとなって石像、銅像業者が作りはじめたという。
昭和三年にはゆかりの地である神奈川県の小学校などをはじめ全国に八十三体が建立されたが、実際に全国に普及したのは昭和六年から十五年ころではないかと目されている。なぜならこの頃は皇国臣民教育が行われ、金次郎の勤勉で倹約家のイメージが国策に利用されたのだ。また昭和十二年は二宮金次郎生誕一五〇年ということで銅像が報徳社(金次郎の門人たちの結社)からの寄付や小学校保護者会の協力などによって、一斉に小学校に設置された県もある。だが、戦争の激化で昭和十六年九月以降は、寺の釣鐘などとともに、金属類回収の一環として供出されてしまった。戦前日本の軍国イメージがついてしまったため、戦後は全国に一斉復活することはなく、散発的に金次郎の精神や業績を見直す機運が高まると像新設、再建が行われている。
像の金次郎が読んでいる本はなんだろうかという問いを持つ人が多いそうだが、あれは往来物の1つの『実語教』という説がある。だが金次郎のお膝元である小田原の曽我小学校では孔子の「大学」が彫られている。実は彫刻するひとにより、白紙だったり違う本だったりと統一されていないのである。背負っているものも柴もあれば薪もある。
二宮金次郎の生き方を教えられていない今日の子どもたちは、「夜中に金次郎が運動場を走っている」「薪の数が増えている」などと好き勝手に学校の怪談を作っているそうだ。まさか金次郎も200年後に、妖怪変化よばわりされるとは思いもよらなかっただろう。
※二宮金次郎 天明七(一七八七)年、神奈川県小田原市生まれ。幼少時に生家が没落、両親死別。薪とりの道中に読書し農作業の傍ら苦学、24歳で生家を再興した。勤勉、倹約の精神を説き、小田原藩など各地で財政再建や農村復興に尽力
●「はるか」を改稿
2005年2月18日更新
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