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第18回
「ビニール名札を推理する」
の巻 |
私が出た小学校では、名札は学年別であった。一年生が赤、二年生が青というふうに色でわけられていた。このため全校児童六〇〇人の名前を覚えられなくても、学年の違いだけはすぐに認識できたので、先輩後輩の序列関係はひと目でわかってしまう。名札はビニールを二枚あわせたものを安全ピンで止める方式だった。上のビニールは透明で、下のビニールに色がつけられている。その間に学校名が印刷され、校章が刺繍で縫い込まれた布をはさみこむ。布には組と名前を書くが、布書き専用のフェルトペンなどない時代だったので、インキがにじんでいる子がたくさんいた。
このビニール名札がいったいいつごろから出来たのか調べてみたが、はっきりとした事物起源はわからなかった。大正九年に遠藤商店がガス管を利用した名札「美術的保護標」というものを発売しているが、これがどうも商品としての名札であるようだが、材質はガス管である。なぜガス管? 戦後で一番早い記録では昭和二十六年に株式会社模範教材社が「学童用名札」を発売しているが、材質はわからない。
私なりに推理してみよう。ビニール名札が大量生産されるには、少なくても、安全ピンと塩化ビニールという素材が普及していなければならない。インターネットで体験談をみてみると、昭和一〇年代はほとんどが胸に住所氏名を書いた白い布(木綿だろうか?)を直接縫い込んでいる。ゆいいつ、「安全ピンで白い布をつけた」という体験が一件あるのみだ。また、これらは名札をつけていた人たちの体験だから、このような結果がでてくるが、私の母や知人の昔のアルバムをみると、胸に名札をつけていないシーンもみられるので、「名札をつけていない」というケースもありうる(事実、昭和五十九年には、千葉の常盤平小学校で名札を強制的につけさせることになり、管理的だと父母が猛反発、教育評論家も名札をつけさせることは教師の手抜きだと批判している空気があった)。一部の地域では安全ピンで白い布を留めて名札にしていたのが戦前という状況になろう。ではこれが防水性をもたせたビニール名札に発展するのはいつか。
塩化ビニール自体は戦前から日本でも生産していたが、ゴムに変わって汎用素材として生活雑貨にとりいれられるのは戦後、昭和二〇年代の半ばからである。一番のピークは昭和三〇年代。ダッコちゃん人形も昭和三五年の発売だ。しかし名札のような末端の小物の素材にビニールが取り入れられ、安全ピンを使ってもコストを安く押さえられる程度になるとすれば、昭和三〇年代後半あたりがビニール名札登場のころになるのではないかと予想される。昭和三十二年から三十三年にかけては、小笠原産業、三英社(現・サンスター文具)、協伸プラスチック工業が名札を相次いで発売しているがこれはすべてプラスチック製である。つまり、布、プラスチック、ビニールという具合に進化していたようなのだ。
さらにこの仮説を裏づけるものとして、刺繍の存在がある。校章の刺繍を大量にこなすには刺繍ミシンが普及していなければならないだろう。国産初の刺繍ミシンはバルダン社より昭和三七年より発売されているのである。
冬になると固くなり、夏場は柔らかかったビニール名札。いまでも学校前の文具店で元気かな。
●「はるか」を改稿
2005年3月22日更新
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