その35 移動し続けた『骨董ファン』編集部と資生堂の石鹸入れの巻
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平成9年に季刊誌としてスタートした骨董雑誌『骨董ファン』が、昨年12月に終了しました。28号でした。毎回「特集にそった内容で書いてよ」と、編集長のみゆきさんにいわれ、頭を抱えたことがたびたびありましたが、終わるとなるとやはり淋しいものです。
今回は『骨董ファン』さよならパーティーの写真と、いままでのお話を少しだけご紹介したいと思います。
私は縁あって『骨董ファン』には創刊号から参加していました。当初は会社帰りに、高円寺にある編集部に原稿を持っていたっけ。駅から徒歩7分。1階にはみゆきさんが経営する骨董屋『西洋堂』があり、3階は彼女の自宅件編集部があったんです。
編集部に入ると、毎度のことではありますが、「ギャーギャー」大騒ぎ! まったくお構いされることのない私は、自ら進んで真ん中の大きなテーブルを前にドンと座り、とりあえず私の番(?)がくるのを待つのでした。みゆきさんの大きな声と、もくもくとマイペースにパソコンに向かう足達さん。2人の間でシャキシャキと動き回るむつみさんの
「あすかちゃん、ごめんね。もう少し待ってて!」
という掛け声で、ちょっと安心。
けれど、誰もが時間との戦いでした。なんといっても本誌のウリは「全国蚤の市&アンティークフェアカレンダー」。このカレンダーだけは、日時、住所、連絡先をけっして間違えてはならないのです(もちろん広告、本文も間違えてはいけませんが‥‥)。3ヶ月間の日本全国で開催される骨董市のリストを校正していく作業と、次々とはいってくる骨董市や広告に関する連絡に、あわただしく対応している地道な姿がありました。
考えてみると、みゆきさんは演劇をやったり、骨董屋だったりしますが、それがいきなり出版をはじめたのです。最初の頃は形にするだけで手いっぱい! その上、当時の出版業界は、印刷・製本に関して旧来から続いてきたやり方が、急激に変化していた時期でした。この変化の波に、変化に強いみゆきさんを中心に、『骨董ファン』のメンバーは見事に乗ったように私には見えました。編集部にはパソコンが増えていき、外注にたのんでいた作業を自分たちでこなすようになり、当然のことながら忙しさが増しました。
そのうち原稿の持ち込み先が飯田橋に変わりました。高円寺にあった編集部と『西洋堂』が引っ越してしまったからです。
「私の原稿はどこに持っていくんですか?」
という問いに、
「あれ、いってなかった? 飯田橋に持っていってほしいのよ。そっちで編集作業をやってもらうことになったから」
と明るい声で答えるみゆきさん。「オイオイ、聞いてないよ」と内心思いつつも、毎度のことなので、いわれた場所に持っていくことに‥‥。
高円寺にあった編集部と西洋堂はどこにいったのかというと、平成13年9月にオープンした、『アンティークモール銀座』の中に引っ越したのです。なんとも驚きの急展開です。『アンティークモール銀座』といえば、10階建ての骨董デパートとでもいいましょうか、アジア初の本格的なアンティークモールです。その仕掛け人の1人が、みゆきさんだというのです。必然的に編集部の人たちは、編集以外にモールの仕事もすることに。よって、私の原稿は飯田橋に届けることになったわけです。
けれど、こんな景気の悪い時代に、『アンティークモール銀座』をオープンさせちゃったんですから、業界関係者の誰もが驚いたのではないでしょうか。もちろん私もビックリです。「銀座にアンティークモールをつくりたい」、「このお店を日本の骨董の発信地、骨董ワンダーランドにしたい」と願ったパワフルな人たちが、たくさん集まって実現したのです。
その後、原稿の持ち込み先は、飯田橋から10階建ての『アンティークモール銀座』内に確定し、ホッとしたのも束の間。この10階という限られた中でも、編集部は移動し続けました。記憶にあるだけでも5回は移動をしています。一番驚いたのは10階からいなくなった時で、たまたま事務所に誰もおらず、9階、8階と顔をだして、
「骨董ファン編集部は、いったいどこにいったんでしょうか?」
と聞いてまわり、ようやく足達さんに会えた時には、
「本当によく動くよね!」
って、思わず強い口調でいっちゃいました。足達さんは苦笑しながら、
「動かすのはもっと大変よ!」
と一言。確かに…。
考えてみたら、ひと昔の前の時代と違い、机と本棚だけ持っていけばよい、というわけにはいきません。編集作業に不可欠なパソコンやプリンター、スキャナー、電話などの機器類も全部移動しなければならないわけで、機械音痴の私としては想像しただけで気分が悪くなります。それも1回や2回の移動ではないんですから。
けれど、これだけではないんです。今度は10階建ての『アンティークモール銀座』全体が移動するというのです。平成16年1月に、です。この話を聞いた時は本気で大声を上げてしまいました。
「えっ? また移動する気なの?」
足達さんは、どこか遠い所を見つめながら、
「もう、慣れたよ」
とつぶやきました。
そんな大移動の話と前後して、『骨董ファン』終了の話を聞きました。これがまたいきなりでしたが、『骨董ファン』らしいなぁと思ったりして。思うに、編集長であるみゆきさんは変化を恐れないのです。前しか見ないというか、今よりひとつでもいいと思えることがあれば、果敢に挑んでゆく性質というか。
さてさて、平成15年12月20日は、新しい『アンティークモール銀座』の、まだなにもない会場での、『骨董ファン・さよならパーティー』となりました。古い布で有名なランコさん、ガラスビン博士の庄司さん(その33、ガラスビンと生きる庄司太一さん参照)、『開運!なんでも鑑定団』でおなじみの安河内さんなど、たくさんの人が集まりました。みゆきさんは、おどったり、歌ったり、大騒ぎ。ホントにいつ見ても元気です。
今は何もない広い会場は、ワンフロアーが100坪ほどあるそうで、1階、2階、地下1階を使って、たくさんのケースショップと複数の店舗が入るそうです。編集部は今後どうなるかというと、骨董に関する書籍の発行、『骨董ファン』のホームページhttp://www.kotto-fan.com/ で、発信しつづけていくそうです。
思い起こすと、『骨董ファン』のはじまりは、「古物とこの業界が好き」という気持ちでした。そして儲けなんて考えず、多くの人に「古いモノ」を知って欲しい、伝えたい、そんな思いが集まって、古物を商う業者の人たちでスタートさせた書籍でした。今にして思えば短い期間でしたが、間違いなく業界に活気を与えてくれた1冊だったと思います。私は最初から最後まで関われたことに感謝しつつ、「お疲れさまでした」といいたいです。
おしまいに、骨董ファン24号の『掘り出し物日記』で書いたモノをご紹介します。この時の特集が『陶磁器 工芸とモダニズム』で、ものすごく悩んだ結果、昭和13年につくられた、資生堂の石鹸入れを紹介しました。なんでも当時の化粧品デーの期間中に1円以上お買い上げいただいたお客さまに、抽選で1等から4等の景品を差し上げたそうですが、この石鹸入れは2等の景品で、4色くらいあったそうです。ボテッとした厚みのある石鹸入れは、わが家の鏡台の前で、花が咲いたように可愛らしいです。
2004年5月18日更新
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