「まぼろしチャンネル」の扉へ
「番組表」へ 「復刻ch」へ 「教育的ch」へ 「東京カリスマch」へ 「日曜研究家ch」へ 「あった、あったch」へ 「再放送」へ 「ネット局」へ
子どもの頃の大ギモン掲示板
懐かし雑貨店「アナクロ」
ノスタルジー商店「まぼろし食料品店」
思い出玩具店「昭和ニコニコ堂」
チビッコ三面記事
「秘密基地」の時代
まぼろし第二小学校
珍商売あれやこれや
秘宝館
掲示板
マガジン登録
メール
まぼろし商店街
まぼろし洋品店

「第二小学校」タイトル

日曜研究家串間努

第20回「赤、青、黄色、緑、水色、黒の羽根」の巻


 昔は学校と民間の距離が近かったのか、福祉募金や業者販売がけっこう小学校内でみられたものだ。羽根を買う募金もそうで、赤い羽の他、五月になれば国土緑化のための緑の羽根募金がやってきたし、交通安全の「黄色い羽根」というのもあった記憶がある。さすがに羽根をいくらで買うか、つまり募金をいくら出すかは個人の自由であったが、定価がないためにあるクラスでは一人一〇円しか払わなかったりと適当なものであった。昭和四〇年代には一〇円の募金が払えない子はいなかったが、家庭のポリシーで募金には一切協力しないという、学校という共同社会の現実を理解しない頑固者の親もいた。その子どもはかわいそうに教室内で肩身を狭くし、背中に消しゴム付きの赤い羽根を投げ刺されていた(ウソ)。

 日本の共同募金運動は第一次大戦後の経済恐慌のなか、大正十年に長崎県でうまれた。不況の中で、社会事業資金を調達するためであった。しかし募金が行われたのは一度限り。当時は、国民の社会事業に対する理解、認識が乏しかったこと、社会事業にたずさわっている人たち相互間の連携がなかったこと、民間の社会事業に、皇室からのご下賜金、国庫、地方費、あるいは助成団体からの補助金、奨励金が毎年下附されていたからである。戦時中は、寄付は軍事目的に使われ、社会事業どころではなかった。

 世界的にみると、十九世紀に米英では社会福祉団体で寄付募集が行われていた。アメリカでは、一九一三年にオハイオ州クリーブランド市で、募金を受ける施設側が主体ではなく、第三者が募金主体となる「第三者募金方式」(コミュニティ・チェスト。「モノポリー」というゲームでもありましたね)が導入された。この方式により、受ける側、配分する側での問題が解消された。これが共同募金のはじまりである。

 日本で赤い羽根共同募金がはじまったのは昭和二十二年。戦後、生活に困窮する人が増えたため、福祉政策として政府は生活保護などを推進していくが、昭和二十一年にGHQが出した「公的分離の原則」によって、民間の社会福祉事業運営のために公的資金を使用することはできなくなってしまう。民間の社会事業施設は、激しいインフレで基金の貨幣価値がなくなっており、財閥解体のあおりで有力な寄附源を失っていた。そこで貧困に苦しむ人々のために「国民たすけあい共同募金運動」として開始されたのが赤い羽根募金なのだ。

 シンボルマークである「赤い羽根」はニワトリの羽根。当初は、ブリキのバッジだったが、コストが高く大量に配るには適さなかった。アメリカ・インディアンたちにとって「赤い羽根」は「正義と勇気」のシンボル。当時、アメリカの共同募金会で水鳥の羽根を赤く染めて使用されていたのを参考に、昭和二十三年にブリキのバッジから「赤い羽根」へと変更されたのである。募金をした人は赤い羽根を身につけることで、寄付をしたことを他人にしらしめることができる。だが、いまでは、「赤い羽根」を使用している国は日本と南アフリカの二カ国だけだ。
 
 「赤い羽根」は商標登録もされている。そのため、もしも企業等がまぎらわしい赤い羽根を使用した場合は、中央共同募金会の方では抗議する権利をもっている。にわとりの羽根は、集められた後、手でほぐされ、真っ赤な染料を溶かした熱湯に入れ、三十〜四十分煮られる。そして、自然乾燥をし、乾燥機でしっかりと乾かす。あとは手作業で針を一本一本つけて完成。現在は完成した羽根を中国から輸入しているということで、一本あたり二・六円の原価がかかっている。だから2円以下の募金では赤字になってしまう。

 中央共同募金会では「赤い羽根子ども相談室」を開き子どもたちの多くの疑問に答えている。質問の内容はやはり「羽根はどうしてできたのか? なぜ赤いのか?」などが多いらしい。 質問の中に「募金活動はいつになったら終わるのですか?」というなんとも素朴な疑問があった。中央募金会ではその問いに対して以下のように回答した。
「共同募金は、民間の自主性、創意、工夫に満ちた先駆的、開拓的活動を資金面で支える運動です。行政の施策が発展してもこのような民間の活動への期待は大きなものがあり、募金活動は一層必要となってくるものと思われます」。
 羽根による寄付金運動がまた盛んになるかもしれない、平成不況の今日このごろである。

色つき羽根募金のいろいろ

 「赤い羽根」の他にも日本では募金活動のシンボルマークとして多彩な色の羽根が使用されている。他にどんな羽根が使用されているのかを中央募金会に問い合わせてみたところ以下のような返答があった。
 「国内の募金活動に関するものとして本会が把握しているものは次のとおりです。
 緑の羽根 国土緑化推進機構が実施
 白い羽根  日本赤十字社(一部の地域で使用)
 青い羽根  水難救助隊の活動のため
 水色の羽根 水難児を援助するため
 黄色い羽根 交通安全協会
 黒い羽根(現在は使用されていない)が炭坑事故罹災遺家族の援助
 昔は日本全体が貧しく、「お互い様」の助け合い精神でつましく生きていたのだ。

「緑の羽根」「緑の羽根」は、国土緑化運動ポスターの原画と標語の募集がはじまった昭和二十五年にスタート。身の回りの緑化や緑化思想の高揚に大きな役割を果たしてきた。第二次世界大戦によって荒れた国土に緑をよみがえらせるために、緑化運動が起こったのだ。

「青い羽根」は海難救助活動をするボランティアのための経費にあてられる寄付金だ。訓練や、各種の救助器材、救助船の燃料が必要になるため、日本水難救済会が昭和二七年から青い羽根募金を行っている。

「水色の羽根」は、漁船海難遺児育英会が昭和四十四年にはじめたもので、漁船海難遺児育英資金である。漁業従事中に海難などの事故で、死亡・行方不明になられた方々の遺児の学資・奨学金などの育英事業にあてられる。設立当初はせめて給食費程度でもということだったが現在は、幼児から大学生まで一貫した育英事業が整備されている。

「白い羽根」は日本赤十字社が昭和二十五年から行った。昭和二十三〜十二四年は、共同募金会と合同で募金活動を行ったが、昭和二十五年からは日赤単独で事業資金を募集することにした。街頭募金の寄付済の証としてブリキの赤十字マークをつけた白い羽根を使用することになったという。昭和三十一年で終了。

 「黄色い羽根」は、大きく2つ、交通安全のものと腎臓移植のものにわかれる
腎臓移植推進のほうは石川県の患者団体である腎友会がはじめたもので臓器移植の普及啓発と石川県臓器移植推進財団の活動事業費として役立てられるものである。羽根という素材をなぜ使用したかというと、「赤い羽根募金などの募金活動に羽根が使用されていたので、募金活動に羽根を使用しようと考えた」そうだ。黄色を選んだのは、石川県腎友会のマークのバックに生命の象徴であるひな鳥の羽根が描かれており、多くの愛情に包まれた羽根に腎友会が支えられている様子を模していたため、それを採用したとのこと。この動きが「日本黄色い羽根友の会」に発展し、いまでは静岡をはじめ全国に波及した。

また、黄色という色が「交通安全」を連想させることから、交通安全関係ではかなり黄色い羽根が使われている。調査すると、山梨、福岡、島根、山形、岩手などでは県民交通安全運動の一環として黄色い羽根を渡しているそうだ。無料配布なので募金とはちょっと違うが。どこが元締なのかと財団法人交通安全協会に問い合わせてみた。しかし、「「黄色い羽根」を使用した運動は行っていない」との返答を頂いた。次に財団法人日本交通安全教育普及協会に問い合わせてみた。そこでの返答も「『黄色い羽根』を使用した運動はこちらでは行われていない」とのことだった。各地で散発的に行われているのかもしれない。同協会によると「交通安全運動」に使用されている「黄色いワッペン」は、銀行4社と財団法人交通安全協会とが協力して運動を展開しているという。

 なお、日本における初めての「黄色い羽根」は昭和三十五年の春の交通安全運動期間中に幼稚園や小学生に配布された交通安全色の黄色の羽根が初めてである(昭和三十三年にベトナム関係で黄色い羽根募金があったようだが詳細は不明)。

 「黒い羽根」は昭和三十四年に「黒い羽根運動」として始まった。福岡県が『炭鉱離職者の生活実態』というパンフレットを発行し、衝撃を与えた。パンフレットを読んだ主婦らが集まり、石炭不況による炭鉱失業者に救援の手を差し伸べる運動を開始、この『助け合い運動』は福岡県母親大会で賛同を得た。北海道など各炭鉱地区との共通の問題でもあるため全国母親大会にも提案、この運動を進めることになった。朝日新聞がこれを報じたことで社会運動として全国に広がっていった。そして福岡県で官民の団体が集まって「福岡県黒い羽根運動本部」を設立、羽根による募金運動をはじめた。石炭が「黒いダイヤ」というわれたことにちなんだ。運動はただの慈善運動に終らせないで、政府に炭鉱不況対策の強化促進を訴えようというのがねらいだったという。
 
学校現場からは反発も

 ただいわれたままに寄付するだけであった私たち児童は意味もわからなかったが、実は羽根を中心とした学校募金にはけっこう反対の声があがっていた。
 
 まず最初に、昭和二十七年に「青い羽根募金」が全国化するときにかみつかれた。そのころ、四月に「緑の羽根」五月に「白い羽根」十月に「赤い羽根」というスケジュールがあったなかで七月に「青い羽根」が参入することを秋田県が拒否したのだ。「手数もたいへんだしこのため出動する学生・生徒の学力も低下し、各戸の負担も大きい」という。国家が定める法的根拠を持っているのは「赤い羽根」だけで、他は都道府県の条例による許可制だったから、各地に小規模な『野放し募金』が続出している時代だったらしい。
 
 このころは教室内で募金しているだけではなく児童・生徒を街頭に立たせて活動させていたようだ。教育上問題があるとして、昭和二十八年には大阪の教員組合が「学校を利用する募金運動を拒否する」ときめた。東京都の教職員組合も昭和二十九年に緑の羽根募金に学童の利用は困ると申し入れている。甲府の小中学校校長会も昭和三十八年に学校募金はいっさいお断りすると決めた。このころ学校にくる寄付の依頼は「原爆鉛筆や結核シール、母の日のカーネーション、赤い羽根など年間二〇余種類にのぼる」(朝日新聞・昭和三十八年十月五日号)という。学校を利用すれば手間がはぶけて成績があがるから各団体から持ち込まれるようだ。教師は募金の回収、納金まで事務いっさいを代行し、そのあおりで授業に支障がでるまでになっていた。また、児童同士募金額の談合や貧困児童の問題もあり、教育上好ましくないと判断されたのだった。

書き下ろし


2005年4月25日更新
ご意見・ご感想は webmaster@maboroshi-ch.com まで


第19回黒板の英語名は「ブラックボード」の巻
第18回「ビニール名札を推理する」の巻
第17回「夜動く、二宮金次郎像」の巻
第16回「体育館の屋根、なぜかまぼこなの?」の巻
第15回学校暖房「ストーブ」の巻
第14回「授業参観」の巻
第13回「カラーハーモニカ」の巻
第12回「木造校舎は消え、鉄筋校舎が建っていく」の巻
第11回「遠足のしおり2つ」の巻
第10回「あのブルマーが消えていく」の巻
第9回「遠足の水もの」の巻
第8回「小さな小さな遊び」の巻
第7回「高級模様入お化粧紙ってナンすか」の巻
第6回「コビトのチューブチョコはパチンコ景品のリサイクル」
第5回「給食のカレーシチューの謎」の巻
第4回「牛乳のフタとポン」の巻
第3回「何のためにあったか「腰洗い槽」」の巻
第2回「幻灯機」の巻
第1回「ランドセルランランラン」の巻


「日曜研究家チャンネル」の扉へ